Eat

Eat

食べる

曽我部恵一の「私の食堂、私の一皿」。〈トロワ・シャンブル〉のオリジナル・トースト

洋食には「おいしい」や「好き」だけではない思い出や物語があります。あの人は、どんなメニューが好きなんだろう。洋食を愛するミュージシャン・曽我部恵一さんにお気に入りの食堂と一皿を綴ってもらいました。特別な一皿をどうぞ。

edit: Koji Okano

連載一覧へ

下北沢〈トロワ・シャンブル〉のオリジナル・トースト

寄稿・曽我部恵一

20代で下北沢に入り浸り、〈トロワ・シャンブル〉に通うようになった。店内にあるパリのカフェのイラストに、行ったこともないフランスの街を思った。まだ何者でもないぼくは煙草を吸いながら伸縮自由な永遠をこの店で過ごしていた。と言えば格好良いがその実、ヒマでだらだらしていただけだ。

煙草で飴色になった壁に「オリジナル・トースト」とある。若いうちは喫茶店で食事をする考えがなかった。音楽が生業になり、コーヒーを啜りながら一人前に歌詞を考えたりし始めて、それを注文するようになった。多少あたたかくなったのだ、懐が。分厚いパンにハムとチーズ、その上にホワイトソース。

こんがり焼かれてふわふわでやわらかく、子供の頃に食べた何かが心に蘇る。すっかりおじさんになってからも、思い出したように注文した。やわらかい郷愁。瑞々しいレタスが添えられていて、最後に少し塩をふっていただく。甘い幻想を抜け、すっと目醒めるような感覚がいつもあった。

ぼくは煙草をやめた。しかし今もその店の奥ではまだ何者でもない(失礼!)若者が煙草を吸っている。彼が無為な時間を自由に過ごしていたらいいな、と考える。混雑時には煙が店内に立ち込める。今どき珍しい光景だ。時代もぼくも変わってしまったが、店は何も変わっていないのだった。壁の飴色だけが深くなっていくのだろう。

今日久しぶりにぼくはまたオリジナル・トーストを注文してみる。あのやわらかな郷愁を、感じるだろうか。(筆)

下北沢〈トロワ・シャンブル〉のオリジナル・トースト
常連には「クロックムッシュ」と呼ばれる、オリジナル・トースト650円。チェダーチーズのコクと塩気が食欲をそそる。

連載一覧へ