あんこ考
また小豆を煮ている。
和菓子を作ろうとしているのではなく、ただ、小豆を煮ておこうと思って。使う鍋はフランスの銅鍋。
ジャム用の、口が広く熱伝導のすこぶる良いもの。ある日は土鍋。長年愛用している頼りになるもの。時に思い立ってアルミ製の行平で、重い鉄鍋で、出番の多い厚手のステンレス製で、と思い立つもので試す。どの鍋でも小豆は煮ることができる。重要なのは道具ではないのかもしれない。
とすれば何?手順なのか。ところがレシピに秘密はない。
レシピは道標だから、秘密を持ったら道に迷うだけだし、全てを明かしているようで言い切れないもの。作る「現場」は人それぞれ違うからだ。多分、道具でも文字や写真や画像でもない、もっと個人的なもの。
どんなあんこになるかの秘密は、作る人と小豆の間にしか生まれない。おいしくな~れは常套文句としてあってもいいが、それとも少し違う。
小豆と自分の、対等に渡り合いせめぎ合い、様子を見つつご機嫌を伺い、そして共に目的地を目指すような作業は、どんなあんこにするかの、一つのプロジェクトのようなもの。
その年、その月、その日その時どんな小豆なのか、どんな自分なのかによって仕上がりが違うとなると、どうしても作り手にしかわからないこととなる。
小豆を知り尽くしてわかり合っているのが和菓子職人で、彼らと小豆との間にある秘密は、どんなに誘導尋問しようとわからない。レシピに起こすどころか言葉にならない領域のことだからだ。
何のことはない、ただ煮るだけさと平気なふりをする、熟練した職人の心のポケットは、小豆への敬愛でいっぱいなのだ、きっと。それは業種を問わず職人全般に言えることだろう。
ずっと前にある職人と話していた時、この人(和菓子職人)何か秘密を持っていると感づいた。その日から、あんこ探偵になって探ってきたけれど、未だ秘密はわからない。
それでも何度となく小豆を煮るうちに、観察と時間と、余裕のある無しで変わるということだけには気づき、その日の小豆をよりよく見るようになった。
小豆の魅力は何か?あんこにすると丸めればお菓子になるところ。晒してこして雑味を除いていくと、驚くほど洗練されるところ。とりあえずは、出来立ての艶々の粒々がそこにいてくれるだけで満足だ。身近なところで享受できる私たちは何と幸せ者か。
と思えば、自前のあんこの味わいは、より格別になる。無意識に食べていたあんこ菓子の良し悪しも洗練も、いろいろなことが見えてくる。何より、小豆の素晴らしさを深く知ることになるはず。
日々煮続けるあんこは、いつしか、途中で割れたり皮が剥がれたりしても大まかに外すくらいで(もちろん食べる)粒揃いかどうかをあまり気にしなくなった。
いわゆる渋切りもきっちりとはしない。雑味も含め、小豆の全てが美味しいと思うから、自分で作るあんこは極めて素朴になった。
私の興味は、煮上がったあんこはもちろん、キャラメルソースや紅茶のように美しい色に変化する煮汁と、やがて小豆が膨らみ皮がはち切れて出現する「呉」にあったりもする。煮てこそ知る小豆の不思議。
煮汁は芳しく風味豊かでどこまでも透き通り(もちろん飲む)、しっとりと沈殿する呉は、まるであんこの甘美な宝物のようだ。そうして過ごすうちに砂糖を替え、水分や潰し加減を替え、ワインで煮含めたりしている今日この頃。
特にオレンジワインの醸造法の特徴から来る雰囲気に、小豆と馴染む共通点がある気がしたので躊躇なく注ぎ入れる。翌日食べて、小豆の懐の深さに果てしない可能性を見る。何と楽しいことだろう。が、やたらに混ぜるでないぞ、と自分に言い聞かせもする。
今日あなたに伝えるあんこレシピは、初めて小豆を煮ようとする人に何と伝えたらいいものか、と小豆に聞きながら考えた。数値で言い切れない、煮る場で起こる部分は体験。
一生の友にする価値のある小豆を煮るということを、まずは体験してください。自分だけの秘密のレシピはその先で見つかるかもしれない。