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翻訳家・土屋京子が紹介する、「翻訳」で何度でも楽しむ名著案内〜後編〜

海外文学を選ぶ際のガイドラインになるのが「新訳」というジャンル。時代を超えて読み継ぐ価値のある名著だからこそ、その時々の言葉で新訳されるともいえる。翻訳の違いの楽しみとは、新訳の意義とは?翻訳家・土屋京子さんに話を聞く。前編はこちら

text&edit: Sawako Akune

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旧訳ならではの独特の味わいも
翻訳書の楽しみ。

どんな新訳も、翻訳者たちのそれ以前に存在するどんな訳よりも良いものにしようという使命感に基づく努力が生み出した、良質のものであるはず、と言う一方で、旧訳には旧訳の深い味わいがある、とも土屋さん。

「旧訳ならではの独特のクセや言葉遣いの方が、妙にしっくりくるというケースがあるんですよね。私にもそういう作品はいくつもあって、『千一夜物語』(豊島与志雄・佐藤正彰訳/岩波文庫)、『ジェーン・エア』(シャーロット・ブロンテ著/田部隆次訳/角川文庫)、『風と共に去りぬ』(マーガレット・ミッチェル著/大久保康雄、竹内道之助訳/新潮文庫)などは、多くの新訳も出ていますが、私はどれも旧訳に愛着があります。

それぞれ最初に読んだときの思い出が焼きついていたりするのでしょう。だから今の翻訳者が、どんなに上手に今の言葉で訳しても、やっぱり最初に読んだバージョンの、違和感があるくらいの言葉遣いが、その作品のイメージによりふさわしく思える。

そのくらい愛される旧訳は幸せですし、新旧訳どちらを選ぶかは、翻訳者としては“お好きな方を楽しんでいただけたらいいなあ”と。新訳でも旧訳でも、自分が何度も読みたいものを大切にしてほしいです」

新訳によって新しく息を吹き返したり、違うバージョンが出る作品は、それだけ繰り返しの読書に耐える強度があるということ。旧訳/新訳を読み比べるのもいいし、どちらかに親しみを持つのもいい。いずれにせよ、何度も読み返してみることで発見は深くなると土屋さんは話す。

「私自身も本を読むのが大好きですから、人生の時々に何度も読み返す本があるのはすごくいいよなと思います。新訳されることはそのきっかけの一つになり得るし、そもそも同じ本を読んで同じ読書になることはない。読者の側も、人間として成長したり変化したりしていますから。読んだときの年齢や状況の違いで、受け止めることは全然違ってきますよね」

土屋さんがこれまでに手がけた新訳を眺めると、いわゆる“児童文学”にくくられる作品が多いが、「子供の本として片づけるにはあまりにもったいない」作品揃いだそう。

「今さら児童文学なんてと思わず、ぜひ読み直してみてほしいです。例えば子供のときには主人公の視点に感情移入していたけれど、大人になって読んでみると、主人公を取り囲む大人たちの視点に寄り添うことができて全く違う感想を持つこともあるし、子供向けと思ってきたけれど、本来は大人が読むべき名作だ!と思うような大発見もありますよ」

新訳によって発見する
百読したい名著。

土屋さんが薦めるそんな一冊が、『仔鹿物語』(光文社古典新訳文庫)だ。土屋さん自身も、翻訳の話が来たときには「子供っぽい作品」というイメージにつられて躊躇したのだそう。

「1946年の映画『子鹿物語』や絵本などの子供っぽいイメージが強く、きちんと読んだことがなかったんです。ところがいざ原著『The Yearling』を読んでみると、少年の一年を通じて過酷な自然を描く、ものすごく骨太な作品で……。

子供向けだなんてとんでもない勘違いで、“こんないい作品を見逃してきたんだ”と、呆然としました。実際に原著は優れたメディアや芸術に与えられるピュリツァー賞を1939年に受賞しているほどで、児童文学の枠組みをはるかに超えた作品なんですよ!

新訳を軸に探していくと、そんな出会いがほかにもたくさん待っているはず。苦手意識を持たず、翻訳作品も“百読本”のリストに加えてもらえたらうれしいですね」

新訳で再発見する

『仔鹿物語』マージョリー・キナン・ローリングズ/著

2012年訳
土屋京子/訳

『仔鹿物語』土屋京子/訳

子供向けのものと
素通りするのは惜しい名作。

土屋さんが「何度でも声を大にして、大人にこそこの良さを伝えたい!」と話すのが『仔鹿物語』。映画やキャラクターものの印象から“子供向け”のイメージが強いが、厳しい自然とそこに住む人間を描いたどっしりとした物語。読んでみたら驚く人も多いはず。

「主人公ジョディと仔ジカのかわいらしい交流の物語と思いきや、ずっと深く、広い物語です。私自身も作品をなめていた分、実際に読んだときのショックは相当でした。

狩りや大嵐など、自然描写の迫力もすごいし、人間社会の一筋縄ではいかない思惑や愛情、個性豊かな登場人物の人物造形も素晴らしい。ここに挙げた別れのシーンは、自分の訳した文章なのに何度読んでも涙ぐんでしまいます」

あの名著の新旧訳を
まだまだ読み比べてみる。

世界的に読み継がれる名著から、旧訳とここ数年で新訳されたものを選んでご紹介。あなたはどちらが好み?

『人間の絆』サマセット・モーム/著

1950年訳
中野好夫/訳

『人間の絆』中野好夫/訳

2021年訳
金原瑞人/訳

『人間の絆』金原瑞人/訳

女性の話し言葉の変化に
時代が見える。

1915年発表の、モームによる半自伝的小説で、イギリス文学の金字塔の一つ。幼い頃に両親を失い、不自由な足ゆえに劣等感にさいなまれ続ける主人公フィリップの人生遍歴の物語。

1950年に日本で最初に翻訳を手がけたのは英米文学翻訳の大家・中野好夫。その後も数多くの和訳が出されてきた。金原訳は2021年刊行。右の会話部分は物語の序盤で、幼いフィリップが、母親が亡くなったことを乳母に知らされるシーン。旧訳と新訳の言葉遣いの差が、翻訳された各時代を感じさせる。

『吠える』アレン・ギンズバーグ/著

1965年訳
諏訪優/訳

『吠える』諏訪優/訳

2020年訳
柴田元幸/訳

『吠える』柴田元幸/訳

若者を熱狂させた
傑作詩を複数の訳で。

ギンズバーグがこの長詩を書いたのは1955年。サンフランシスコの朗読会でこの詩の第1部を読み、それがきっかけで翌年出版。

語りかけるように感情と言葉を叩きつける詩が熱狂を呼び、ギンズバーグはビート・ジェネレーションを代表する一人となる。諏訪訳は当時の日本の若者たちにも読まれた。柴田訳は2020年刊行。柴田もあとがきで「学生の頃から折に触れて眺めてきた」と謝辞を送っている。諏訪訳より柴田訳の方が片仮名遣いが増えた印象。外来語の浸透度の違いがわかる。

『ドン・キホーテ』ミゲル・デ・セルバンテス/著

1999年訳
牛島信明/訳

『ドン・キホーテ』牛島信明/訳

2016年訳
野谷文昭/訳

『ドン・キホーテ』野谷文昭/訳

新訳によって400年以上生き続ける名著。

騎士道物語に心酔し、現実と空想の区別がつかなくなったアロンソ・キハーノが、ボロボロの鎧を自ら修理して身にまとい、遍歴の騎士ドン・キホーテ・デ・ラ・マンチャとなって旅に出る。

映画などにもなったスペインの作品が書かれたのは17世紀初頭!実に400年以上前の作品が今も読まれているのは折に触れて新訳が出されてきたから。過去には堀口大學も訳している。牛島訳は1999年刊行。野谷訳は2016年刊行。牛島訳ドン・キホーテの方が少し年上の印象?野谷訳はより精悍だ。

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