『十二神将変』
塚本邦雄は20世紀後半に寺山修司らと並び称された前衛短歌の名手。しかし岸本さんが繰り返し読んでいるのは、歌集ではなく彼が70年代に上梓した長編小説『十二神将変』だ。
「なぜこの本を手に入れたのか、それはいつだったのか、あまり覚えていないのですが、最初に開いたときに、もう書き出しからこれは途轍(とてつ)もないものを読んでいる、ということがわかりました。十二神将というのは簡単にいうと12の仏像のことで、それがモチーフになったある殺人事件の話です。
短歌の巨匠の筆によるものなので、言葉に対する感覚が研ぎ澄まされていて、その高い精度と密度、鋭さのまま書かれた、怜悧(れいり)でアカデミックな耽美的ミステリー。美しい文章の行間から淫靡(いんび)な蜜のようなエキスが溢れ出ています」
物語は知的上流階級の薫りが漂う、父、母、兄、妹の4人家族の餝磨家を中心に展開。兄と妹が素人探偵役を務め、最後は謎解きが行われるというミステリーではあるが、その枠組みよりも文章の美しさ、豊かさに圧倒された。

「登場人物一人一人が魅力的。餝磨家には離れがあり、そこにサンスクリット語の権威である叔父が住んでいます。この叔父・空晶がまたセクシーな金田一耕助というか、エロいシャーロック・ホームズというか、色気がすごい。この人を含め餝磨家の人々が交わす会話の一言一言がハイブロウ。
その裏に膨大な知識が隠れているのがわかります。インド占星術の天体と神から派生した九曜や魔法陣、干支をはじめ、茶道や書道、服飾、絵画、詩歌、食などのさまざまな知識。それを調べながら読むのがとても楽しい」
塚本は短歌雑誌編集者だった中井英夫に見出された。この作品には、設定や展開に中井の小説『虚無への供物』へのオマージュが読み取れ、人間関係やシチュエーションなどは源氏物語を意識しているともいわれている。人物相関図には曼荼羅になりそうなほどのきれいな様式美があり、驚愕の衆道的展開も用意され、ネタが盛りだくさん。
「この本は、いつも仕事をしているデスクのすぐ横に置いています。翻訳に疲れたらパラパラとめくりますが、どこを開いても一行一行からわっと蜜を浴び、何かがチャージされる。完全に麻薬です。
物語にも文章にも何層も奥があるので、次々と発見があり、これを味わうだけの知識と教養が足りていないからもっと調べたくなる。だから100回読んでも飽きないんです」
『十二神将変』岸本さんお気に入りの一節
硝子越の雨は激しさを加へ木犀の根元の秋海棠が水浸しになつてゐる。
はるかな正午のサイレンが真昼の黄昏の寝室に響いて来る。天道は急に睡気を催した。
「『後朝の夢違へてや初時雨』か。杜国の揚句だつたかな」
空晶は応へずに煙草に火をつけると深深と吸ひこみ、逆に持ち変へて差出した。吸口がわづかに濡れてゐる。
文章があまりに好きすぎて
写経のように書き写す。
仕事机のそばに置いている愛読書の中には、開高健の『眼ある花々』も入っている。開高作品とは学校教科書で出会い、心奪われて「闇三部作」などの小説を読破。遅れて手を伸ばしたこのエッセイ集でも、とにかく文章を味わい尽くしたくなるという。
「開高さんは常に旅をしている作家でした。『眼ある花々』は、訪れた場所を花に事寄せて語っているエッセイ集です。全編素晴らしいんですが、まず1番目の『君よ知るや、南の国』はベトナムの夕焼けについて描写したシーンがものすごく良くて、その文章を何度も読み返し、好きすぎて、ときどき写経のように書き写すほどです。
開高さんは卓越した日本語の使い手。それもサーカスの猛獣使いのように日本語を使っている気がします。こんなふうに日本語を鍛えしならせ、情景を美しく浮かび上がらせるところが、唯一無二だなと思います」
1964年に戦時下のベトナムへ、新聞の臨時特派員として赴いた開高。「君よ知るや、南の国」ではホタルについて書いている。ある夜、ものすごい爆撃の中で震えながら物陰に隠れていると、向こうの方で木に止まった何千万というホタルが、木ごとに一斉に光り、さっと暗くなる光景を目撃する。
「ホタルがその木全体で明滅を繰り返すさまを、花のようだと感じる。情景や花の美しさと戦争の悲惨さが表裏一体となり、その対比がすさまじいんです。
イスラエルの死海と、沖に停泊しているぼろぼろになった戦艦についての『死の海、塩の華』でも、塩の華のことを書きながらやっぱり戦争の影がちらついている。豪放磊落(ごうほうらいらく)な開高さんと花というのはイメージ的に結びつきにくいんですが、やっぱり開高さんにしか書けない花の話なんです」
『眼ある花々』岸本さんお気に入りの一節
うるんだ亜熱帯の黄昏空を巨大な夕陽がソテツやヤシの林のかなたに沈んでいき、空には真紅、紫、金、紺青、ありとあらゆる光彩が、いちめんに火と血を流したようななかで輝き、巨大な青銅盤を一撃したあとのこだまのようなものがあたりにたゆたっている。
謙虚な、大きい、つぶやくような優しさが土や木にただよう。
独特のカメラアイと
それを言葉にする無敵の才能。
3冊目の『遊覧日記』は、大好きな武田百合子作品の、特に読み込んでいる中毒本。著者の思いつくままに、東京の代々木公園や浅草の花やしきなど、日常的な場所に足を運び、ただそこで目にしてきたことを書いている。けれどそれがべらぼうに面白い。
「武田百合子の目は普通の目ではありません。例えば代々木公園で見かけたおじいさんが、言い訳するような手つきで太極拳をしていたと書いている。彼女でなければそんなふうには見えないと思うんです。
独特の方向性と鋭さのあるカメラアイで、他者に見えていないものをキャッチする。それをまた素晴らしい文章で書く。特殊な目と、それを言葉にする独自のフィルターを持っているので、もう無敵です」
初めて目にする表現であっても、その光景がすぐに浮かんできて、もうそれが正解としか思えない。そういう力が武田の言葉遣いや文章にはある。
『遊覧日記』岸本さんお気に入りの一節
木の枝に膝をひっかけ、逆さとなって体を振る男。いいわけしているみたいな手つきで太極拳をやる老人。マラソン練習の若い女が悶えるように走り過ぎる。
夫婦者のような、いや、そうでもないような男女が並んで走る。作業服のおばさんが走る。
走るのを突然止め、林の中へ入って行き、抱き合ってねころんだ西洋人の男と日本人の若い女。
「3冊に共通しているのは、素晴らしい日本語の文章だということ。極端ですが、私はストーリーがつまらなくても日本語が良ければ満足。翻訳の仕事をしていると英語ばかり読むことになります。
すると、どうしてもものすごく和風のだしの効いた、おいしい日本語を読みたいという欲望が高まってくる。その渇望を満たすのがこの3冊や、岡本かの子、泉鏡花、谷崎潤一郎などの作品です。乾いた細胞に水と養分が行き渡り、チャージ完了という感覚になる。だから美しい文章の本を何度も開くんです。
新しい本に次々と手を出すのもいいけれど、私には100冊の本を1回ずつより、1冊を100回読む方が性に合っている。繰り返し読むには、それに耐えられるものがなければならないはずですが、ある1行が素晴らしくよく書けていれば、同じ文章でも100回味わえると思うんです」