心は個人だけの問題ではない。社会との関係に光を当てる
うつ病や統合失調症など心の病を考える際には、つい患者さん個人に注目しがちです。もちろん、その人が暮らす環境の見直しは大切。しかし心が病むことは、あなたがおかしいのではなく、社会の側におかしさがある証しだと捉えることができると、ぐっと気持ちが楽になります。
この観点を提唱した先駆者に中井久夫さんがいます。代表作(1)では、書名にある「分裂病」こと統合失調症と、うつ病の発生を、人類社会の変化の産物だと捉えました。統合失調症に伴う妄想とは、実は、今後襲ってき得る出来事の「予兆」をつかもうとする脳の働きで、予測不能な“狩猟社会”では貴重な才能だった。
一方で、うつ病は“農耕社会”の職業病でした。農業では狩猟とは逆に、昨年と同じ形で安定した収穫を得ること、つまり過去に忠実な繰り返しが重要。それが機能しないと、無力感からうつに陥ってしまう。病は時代の副産物なのです。
対して現代は、過剰なほどの“コミュニケーション社会”。近代以降、人間相互の交流が活性化しすぎた結果、新たな心の病が生まれつつあります。米国文学の古典(2)「書記バートルビー」は1853年、つまりペリー来航の年が初出。NYで働きながらもすべてに消極的で、仕事はおろか食事の意欲すら失っていくうつ的な男性が描かれます。
物語の最後に、彼は元郵便局員、それも住所の不備などで配達不能な手紙を仕分けて燃やす人だったことがわかる。通信の総量が増大する裏で、誰にも届かないメッセージの増殖に、生きる意義を見失った犠牲者と読めます。
(3)はご存じの通り、コンビニバイトのみで暮らす30代半ばの店員の日々を描く小説。彼女は他人の心を推測するのが苦手な分、周囲の悪意や揶揄にも気づかないので、あらゆるハラスメントが通じない。コミュニケーションが「できない」人の方が生きやすいのでは、とすら思わせる。本作が日本のみならず世界で共感を呼んだ事実は、私たちの「心と社会」の関係が新たな次元に入ったことを示しています。