やさしさは時として相手を苦しめる。
やさしさにはいろんな形がある。例えば、“誰かを思いやる”。が、言うは易し、行うは難し。そう思ったのは『「愛」という名のやさしい暴力』を読んだから。タイトルの「やさしい暴力」とは、子供が生きにくさを感じるほど親が子供の世話を焼くこと。その原因の多くが、夫婦関係の破綻に親自身が目を背けているから、という指摘も鋭い。
他者を思いやる第一歩は、他者ではなく自身の問題に向き合うことなのだ。
厳しさを排除した現代の“友人”関係。
が、自身を客観視することは難しく、むしろ身近な他者が教えてくれることも多い。そこで次に読んだのは『友人の社会史』。本書によると、友達になる/やめるが手軽な現代の友人関係は冷淡であり、友達とは“常に”いい関係でいるために、相手が気を悪くしそうなことは言わない傾向がある。筆者は迷惑をかけることを前提にした持続的な関係性こそが必要だという。
家族って最も難しい共同体かもしれない。
ならば、友人以上に近い存在である家族はどうだろう?と、『マザリング 現代の母なる場所』を。包容力があり我慢強い、といった母にまとわりつくイメージを解体し、さらにやさしさのヒントを教えてくれる。それは「尽くす」という言葉の解釈だ。“人のために自分を犠牲にする”というニュアンスが一般的だが、本書では「自身の成長のために次の限界を超えていこうとする気持ち」と説明される。
彼女たち一人一人に理由があるのだ。
が、誰もがそうそう前向きな気持ちで他者と関われるわけではない。そこで読んだのが、大麻や覚醒剤に染まった経験を持つ人々を描いた『薬を食う女たち』。結論から言えば、禁断症状を引き起こす薬漬けの状態ではやさしくあれない(当然だ)。
それより気になったのが、本に出てきた、依存者を利用して欲を満たす、売人や医師、家族の存在だ。彼女らを取り巻く狭いコミュニティもまた、やさしさを遠ざける原因の一つかもしれない。