社会が先ではなく、“個人”が先にある。
偶然電車の席の隣に居合わせた、名も知らぬ人の人生にふと思い至った。それを教えてくれるのが『東京の生活史』。見知らぬ人の暮らしぶりや、不満や自慢、成功や失敗を面白く読めるのは、娘のある一言に救われたお母さんなど、パーソナルな持ちつ持たれつの関係性が垣間見えるから。
損得や名声なんて関係ない、
誰かのために立つ人がいる。
時に孤独に耐え忍んだという話から、個人と社会の関係が気になって、『社会のしんがり』へ。しんがり、とは最後にとどまって退却する軍を守る人々のこと。この場合、社会の最後のセーフティネットを意味する。印象的だったのは「一番厳しい(状態の)人を見捨てる社会は、みんなが見捨てられていく可能性のある社会につながる」。
右肩下がりのこの国に、
政治ができることとは。
社会やシステムなど、もっと大きな視点で考えてみたいと『本当に君は総理大臣になれないのか』を取る。興味深いのは、政治家の仕事が変わりつつあるということ。これまでの“利権分配”から、今は真逆に、福祉をはじめ公共のために国民に負担をお願いすることが仕事になっている。だからこそ政治家への信頼がものを言うのだと。少なくとも旧来のような政治やシステムを続ける限り、やさしい社会を作るのは難しいだろう。
一人一人はやさしいのに、
集団になるとなぜ?
だが、やさしい社会への足枷は政治だけではない。『加害者家族バッシング』は、日本独特の「世間」が、自殺に追い込むほどの苛烈な加害者“家族”批判を生んでいると指摘する。「世間」とは“出る杭は打たれる”に代表される“ほかと違ってはいけない”という意味での人間平等主義であり、同調圧力である、と分析する。
「世間」は日本ではまだまだ強く機能しているフレームだが、民主主義社会の先駆者であるヨーロッパにもあり、代表的なものは“移民排斥”だろう。
民主主義の先駆者、
ヨーロッパはやさしい?
そこで『亀裂 欧州国境と難民』。国境には壁が立ち、地中海に浮かぶ船をまず難民ボートと疑う様子は、「世間」に似た不寛容で閉鎖的な状況を思わせる。日本、海外。確かに“やさしさ”は隅に追いやられているかもしれない。「そんなことはない」と言えるなら、それは自らや社会が誰かを排除したり、見下げたりしていることに気づかない、あるいは気づかされないように管理されたユートピアにいる可能性がある。
そんなことを頭の片隅に入れておきたい、と思ったのだった。