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長嶋有が語る〈福家〉のヒレカツ丼定食

あの時食べたこんなとんかつ。小説家・長嶋 有による味の記憶。

Photo: Kayoko Aoki, Tomo Ishiwatari, Kasane Nogawa, Kunihiro Fukumori, Hiroki Tsuji / Illustration: Naomi Tokuchi / Text: Hikari Torisawa, Yuriko Kobayashi, Koji Okano, Izumi Karashima / Edit: Keiko Kamijo

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福家(三鷹)

三鷹 とんかつ
ヒレカツを卵でとじた丼定食。別にかつ丼2種がある。¥950

お気に入りのとんかつ屋さんを教えてくれと問われ、非常に困った。お気に入りのとんかつ屋が特にないからだ。

そう書くと、とんかつに思い入れが薄いと思われるだろうが、逆。

お気に入りでないとんかつ屋が一軒もないのだ。(自分にとって)美味しくないとんかつがない、と同義でもある。
あそこのは特に美味しかったとか、あそこのはイマイチというのが、本当にない。人生で出会ってきた全とんかつが等しく嬉しい楽しい大好き、だから「どこそこのは特にうまい」という序列が、情報が脳内に蓄積されない。

「あー分かる」「たしかに、とんかつってだいたい美味しいよね」と、賛同の相槌をうってくれる仲間と会話していても、分かる。自分は孤独だと。冷凍食品でも、駄菓子の「ビッグカツ」でさえ(中身は鱈のすり身なのに気持ちはとんかつで)うまいと思う自分の雑さに付いて来れる者はいない。

こう語ると、とんかつが大好物であると言っているようだが、そうではない。

だって三食すべてとんかつで、とは思わない。昨日食べたら今日は食べない(カレーライスなどは連続でためらいなく択べる)。メニューにあっても、今日はとんかつじゃないな、と択ばないときも多い。比較して、とんかつよりもハンバーグの方が好きだ。だが、ハンバーグにはときにうまい・それほどでもないの「差」を感じるのに対し、供されたとんかつすべてが———それがとんかつである限り必ず———美味しく感じるというのは、これは好みというよりはテーゼのようなものだ。

そんな人にとって畢竟、「良い」とんかつ屋は「近くにある」とんかつ屋ということになる。

三鷹に十年以上暮らしたので、三鷹駅近くの〈福家〉にはお世話になった。飯時に家を出て、今日はとんかつだな、と決めて歩くとき、今日出会うとんかつも美味しくあれよ、などとは思わない。〈福家〉閉まっているなよ、だけだ(店の名誉のために付け足すと、とんかつの優劣の分かる友人も絶賛の美味しい店です)。


実際にはとんかつではなく「ヒレカツ丼」を何度も注文した。一階はカウンター席中心で、二階は四人掛けのテーブル席。だいたい、カウンターで一人だった。両隣はサラリーマンが多かった。とんかつは一人で食うべき、とまでは言わないが、一人の似合う食べ物ではある。

そこに、恥に近い気持ちを伴うからだ。

カロリーの高い調理法の、ボリュームのあるもので、それだけなにかの欲がまろび出ている。とんかつがとんかつという呼称でよかった。その語感、平仮名表記もモテない三枚目感を醸し出す(「がっつり」という妙な予防線の形容詞が広まるまで、とんかつのイメージはもっと非モテの側にあった)。

あれがベーグルとか汲み上げ豆腐という呼び名(であの食べ物)だったら人は皆、恥を感じずに摂取しすぎて(死んで)しまうだろう。とんかつ屋の看板には豚のイラストが描かれることが多いが、写実的な造形の豚をみたことがない。すべてコミカルな、愉快なムードだ。そのことはとんかつに必ず備わるささやかなリスクだ。三枚目の、愉快な、つまり深遠でない人間性をさらけ出すことと引き換えに、だからなるべく一人で黙々と、とんかつを食べる。

〈福家〉には学生を連れていって「たらふく(という語もまた、三枚目に属する語感だが)食いな」とおごったこともある。カウンター中心の一階と異なり、そこにはテーブルごとに向かい合う他者の姿が見晴らせる。

皆で食べるとんかつも悪くない。これはファミレスやサービスエリアではダメで、とんかつ専門店でなければ味わえない気持ちかもしれない。ここでは皆が、付随する三枚目のイメージを覚悟して階段をのぼってきた、無言の共犯者たちだ。

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