西洋から伝わった文明の大きく花開くさまを間近につぶさに見つめた文人たちが、洋食を求め街を行く。明治、大正、昭和から平成を経て令和の今も愛され続ける洋食の店を巡る誌上クルーズ。「想像の舌は長くて何処迄でも届く」(『御馳走帖』)と書いた内田百閒に倣って、いざ!
洋食の歴史を辿ると必ずや目にするだろう3文字が〈煉瓦亭〉だ。東京・銀座で1895年から続く老舗で、北杜夫は「銀座の昼食バンザイ!」と叫び(山本容朗『文人には食あり 文壇食物誌』)、古川緑波は「煉瓦亭のトンカツは、僕に言わせりゃあ、最も本格的な、トンカツだった」(『ロッパ食談 完全版』)と、連載に、日記に、その名を書き残す。
少年時代には驚きをもって、年を経るごとに愛着と懐旧の情を募らせるように、〈煉瓦亭〉とそこから徒歩数分の場所にある〈資生堂パーラー〉に通い続けたのは池波正太郎。小学生の時分から、小遣いを貯めて百貨店の食堂でビフテキを食べていた生粋の食道楽が行きつけた店は枚挙にいとまがないが、銀座ではこの2軒に加え〈みかわや〉にもしばしば足を運んだという。
日本初の近代的洋風公園である日比谷公園内の〈松本楼〉は1903年の開業。以来、『野分』で登場人物にビステキや鮭フライを頬張らせた夏目漱石をはじめ、高村光太郎、太宰治、松本清張らがやってきては、会合を開いたり、カレーを食べたり、その姿を小説や詩に書きつけたりしてきた。
芥川賞・直木賞など文学賞の授賞式に長く使われてきた丸の内〈東京會舘〉もまた、多くの作家が訪れた場所だ。洋食なんて仕方なしに食べるもので「料理のような気がしない」とまで言ってのけた谷崎潤一郎にさえ、「東京會舘のグリルで食わせるテンダーロイン・ステーキがよかった」「帝劇へ行く度毎に、地下道を通ってあのビフテキを食いに行くのを楽しみにしていた」(『谷崎潤一郎全集 第十一巻』)と、「降参!」の声が響いてきそうなエッセイを書かせてしまうのだからすごい。
ちなみに〈東京會舘〉の〈プルニエ〉の常連だった三島由紀夫は、舌比目魚御飯ソースシヤトーをこよなく愛したとか。三島偏愛の洋食といえば、2016年まで赤坂で営業していた〈カナユニ〉が青山に移転オープンしたのが18年のこと。作家を虜にしたオニオングラタンスープは今もオンリストされている。
神保町へ目を転じれば、〈ランチョン〉では吉田健一がビーフパイの発明を、〈松榮亭〉(休業中)では漱石が洋風かきあげの発明を促している。胃弱であった漱石と違い、健啖家(けんたんか)にして酒豪であった吉田健一は、新宿〈中村屋〉へ行っては、カレイライス、パステエチェン、ボルシチを、当時新橋にあった〈小川軒〉では、牛の尾のシチュウ、オムレツ、チキンカツ、マカロニとトマト・ソオスの牛肝煮、ポタアジュ、牡蠣(かき)フライなどをたんまりたっぷり食べてなお飽き足らず、味の記憶を動員して空想の宴を催し『饗宴』という作品に昇華させている。
さらにサンドイッチ、前菜、サラダ、ロオスト・ビイフなどを詰めてもらって家へ帰っても食べていたというのだから、「小川軒には、週に一度ずつは、きまって吉田健一氏の酔った笑い顔が」(『わが百味真髄』)と檀一雄に述懐されてしまうのもむべなるかな。なお、1964年に代官山へ移った〈小川軒〉を訪ねた客の第1号は、こちらも食いしん坊を自認していた志賀直哉だったという。
文人たちの気配の色濃い御茶ノ水〈山の上ホテル〉の洋食に惹かれつつ、湯島から北東へ抜けるとじき上野に到着する。池波少年が通った松坂屋の食堂はすでにないが、池波、谷崎、川端康成、永井荷風、北大路魯山人、白洲正子らが愛した〈ぽん多本家〉は健在だ。
上野公園内で1876年から続く〈上野精養軒〉では、太宰の出版記念会、芥川龍之介の送別会に横光利一の結婚披露宴など文壇の催しがたびたび行われ、漱石の『三四郎』『行人』、三島の『宴のあと』、森鷗外の『青年』などにも登場して、歴史と記憶とたっぷりの美味を現在につなげている。
「美味しいものでごはんをたべないと、小説がうまく行かない」(『紅茶と薔薇の日々』)と書いた森茉莉もまた、父に手を引かれ、この場所で洋食に親しむ。後年、家の味と「鷗外の味覚」を辿るエッセイには、「私は鷗外の子でよかった」(『記憶の絵』)という柔らかく温かな一文が書きつけられていた。