第二十六回「傷」
雪さんが自分の体を初めてきちんと観察したのは、一人暮らしを始めてからだった。実家には大きな鏡がなく、またそれまで自分の体に興味を持ったこともなかったので、バスルームにある大きな鏡を見ながらバスタイムを過ごすことは小さな楽しみの一つだった。
ある夜だった。湯船から出た雪さんは、石鹼を付けた手のひらで体をこすっていた。鏡に、一瞬目を疑うものが見えた。胸から腹にかけて撫で下ろしたとき、手のストロークに沿うように、斜めに裂いたような大きな傷が現れたのだ。驚く暇もなく手を返す動きに沿って傷は消えてしまった。血も出なければ痛みなどもない。ただ巨大で生々しい傷だった。
それから、同じ場所に突然巨大な傷が現れてはあっという間に消えるのを鏡で見ることが続いた。これはいつか自分に降りかかる不幸の予告なのではないか。不安な想像を抱いたまま数年が経った。
ある朝、リビングに出た雪さんは、同棲している恋人が飼育する大きな淡水魚が水槽の底に力なく沈んでいるのを見つけた。掬い上げると、魚の腹には裂かれたような巨大な傷が入っていた。魚は自分の身代わりになって死んだのだ。雪さんはそう思っている。