第三回「悪意」
「お姉さん、犬飼ってますか?こいつがお姉さんの側に犬がいるって怖がってて」。騒がしい居酒屋で声をかけてきたのは、隣のテーブルで飲む男子学生らしきグループだった。犬を飼うどころかろくに触れ合った記憶もないSさんは、「こいつ」と呼ばれた彼に言葉のわけを訊ねた。
「変なこと言いますけど、真っ黒のでかい犬がお姉さんを睨んでるんです。そいつがおかしくて、目もとだけが人間で、ずっと牙を剥いてる。お祓いとかに行くべきかも」。酒の入ったSさんはそれを聞いて大笑いした。Sさんが婚約者から一方的な別れを告げられたのは、それから少し経ったころだった。
風の噂で、Sさんの親友だった女性が略奪を仕掛けたらしいと知った。彼女はこれまで親身になって恋愛相談に乗ってくれてさえいたが、その裏には恐ろしい魂胆を持っていたのだった。Sさんに残された慰めは、婚約者との思い出がつまった品をひとつ残らず捨てていくことだけだった。
ゴミ袋が溜まるころ、Sさんはあるものに手を伸ばしかけてはっと寒気を覚えた。真っ黒な犬のフィギュア。それはSさんが持っている唯一の犬で、昨年の誕生日に、あの女性が笑顔で贈ってきたものだった。