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ビール一杯に入魂!ビヤホールの歴史と今昔を貫くスピリット

ビヤホールは、日本生まれである。明治32(1899)年8月4日、惠比壽ビールを売り出していた日本麦酒の直営店として、銀座に開店したのが〈惠比壽ビヤホール〉。本当はビヤ「サロン」に決まりかけていたけれど、当時横浜あたりでサロンといえばあまり品がよろしくないところ、というイギリス人の助言で「ホール」になったという和製英語だ。

Photo: Koh Akazawa / Text: Naoko Ikawa

日本独自のビール文化を育てたビヤホール。

日本人のほとんどが、まだビールなるお酒を知らない時代。「何これ旨い!」とびっくりしてもらおう、そしてじゃんじゃん広めよう、としてつくった酒場だから、ビヤホールの定義は単純明快。

“ビールがおいしく飲める場所”。この「おいしく」には「本来の味」という意味が含まれていた。

冷蔵庫のない当時、日本酒感覚のままぬるめの温度で口にされた日には「ビールっておいしくない」の烙印が押されてしまう。だからビヤホールでは新鮮な樽生を氷室で管理し、正しく注いだビールを飲んでもらおう、ということ。本来の味を知ってしまったら、きっと日本中が好きになるはずだから。

ビヤホールライオン 銀座 七丁目
〈ビヤホールライオン 銀座七丁目店〉のシンメトリーな空間は、当時38歳の菅原栄蔵が設計。柱のぶどう電球は豊穣、水玉電球はビールの泡、天井へ槍状に広がる柱は麦の穂をイメージ。

かくして、歴史はその通りになった。大正12(1923)年の関東大震災から急速に復興した昭和初期の銀座、東京が最も華やかだったとされる時代のビヤホールは、当時の勢いを象徴する場所だ。

昭和9(1934)年に完成した〈ビヤホールライオン 銀座七丁目店〉の設計は、あえて巨匠ではなく才気溢れる若手建築家に依頼。前衛的な空間に、蓄音機でクラシックを流したハイカラな酒場は、最先端カルチャーだった。

3年後の昭和12(1937)年には数寄屋橋に〈ニユートーキヨー〉が創業。当時は世に身分や職業の階級意識が残っていた時代だが、ビヤホールの中にはそれがなく、自由な空気だったという。

その後ビールは、給料が出たら飲むご褒美から日常の酒へと大衆化。ビール専門の酒場も枝分かれして、戦後の高度経済成長期からバブルを迎える頃には、ビアレストランにビアバー、アイリッシュパブなど百花繚乱。クラフトビール時代に入ると、醸造所併設のブルーパブ、樽生をメインにするタップバーも現れている。

反比例するように歴史あるビヤホールは一つ一つ幕を閉じ、今や“絶滅危惧種”である。寂しいですね、なんて言っている場合じゃないですよ。これは宝の損失。日本独特のビール文化が消えてしまう、ということなのだから。

新しい時代の息吹を伝える空間。神経質なまでに繊細な品質管理。そして「注ぎ」の技術と「注ぎ手」の流派。最高の液体と泡をいかにジョッキへ収めるか、の一点へ集中したことで、茶の湯のごとく研ぎ澄まされたそれらは、ビヤホールが育んできたもの。

空間や道具が有形の文化遺産なら、人の技術は“無形文化遺産”。各ビヤホールには歴代の注ぎ名人が育ち、家族経営の〈ビヤホール ランチョン〉で注ぐ仕事は当主だけに許される。〈ビアライゼ’98〉では師匠の注ぎの技術を、唯一の愛弟子が継承している。

そうして有形無形の文化遺産は細い糸でつながれているものの、この先はどうなってしまうのだろう?そんな心配をしていたら、昭和のビヤホールなんて知らないであろう世代の酒場に、そのスピリットが息づいていたのである。

日本橋兜町にオープンした〈オムニポロス・トウキョウ〉と、同じ街の〈B〉は、共に海外発のクラフトビールを、日本でおいしく飲んでもらうための酒場。

フレドリック・ポールセンが古いウナギ屋をリノベーション
〈Omnipollos Tokyo〉はデザイナー、フレドリック・ポールセンが古いウナギ屋をリノベーション。既成概念をひっくり返す、をテーマに、屋根裏は大地の色、床は空の青という天地逆転。

勢いのある、何より自分たちと感覚を共有するデザイナーによって、空間ごとビールの世界観を体現した。と聞けば、〈ビヤホールライオン〉とぴたり重なる。

しかし何よりシンクロするのは、街に開かれたパブリックな在り方だ。かつてビヤホールで文士も車夫も行商人も隣り合ってジョッキを傾けたように、〈オムニポロス・トウキョウ〉はスーツ姿の金融マンやスケボーに乗った若者をフラットに迎える。〈ビヤホールライオン〉のレコードをみんなで聴いたように、〈B〉ではとびきりいい音を浴びながら生ビール。

麦芽とホップと水で醸す液体を楽しむ人々はどの時代でも明るく、だからこそあらゆるカルチャーと共存できるのかもしれない。

じゃあ注ぎ手の継承はどうかというと、いたいた。〈ニユートーキヨー〉のスピンオフ的な店、〈ブラウハウス〉。1983年生まれの店長は、学生時代のアルバイトでビヤホール文化を知った。ビールを大事にする姿勢や、注ぎの技術など老舗のいいところをもらって、自分の表現にしている。

日本が手放しそうになっていた、長く続いてきたものの価値。そこに気がついた新しい世代のビヤホールは、いろんなカタチをしている。けれど“ビールをおいしく”のシンプルで絶対的な定義と、人に開かれるビヤホール・スピリットは、これからの時代も必要だ。