1940s-50s:戦中の文字への飢えを
満たすように皆が読んだ
学童疎開をし、小学校の4年生の時に敗戦。教科書は墨で塗りつぶし、何をしていいかわからない。そこで、俳句を作ってみよう。そういう考え方をしてくださった担任の先生がいらした。戦争じゃない日常のことをみんなで考えて和やかにできる。それはすごく運のいいことでした。
中学の担任は学校を出たての文学青年。思いのたけをクラスの子供たちに話しました。島崎藤村の『若菜集』、「まだあげ初めし前髪の……」などと情感を込めてみんなで暗唱すると、惹かれるものがありました。
高等学校へ入りますと翻訳もの。『風と共に去りぬ』なんて、通学の都電で夢中になったものです。当時は文学全集と大百科事典、そんな大部の本がたくさん出て、流行っていたのでしょう。
みんなで一斉にそういうものを読んだと思うんです。『ジャン・クリストフ』『魔の山』『チボー家の人々』とかの大長編。長すぎるっていえば長すぎるし、今読み返すという気にはなりませんけれどもね。
若い時にああして、人生を語る長い物語を丁寧に読んだというのは、それでなにかを得ましたかって聞かれるとわかりませんけれども、平凡な生活を送る人間がものを考えるには良かったのではないかな。
60s:物事の本質を捉える
児童書と科学の本の発見
創元文庫の、クエスチョンマーク印のついた推理ものや、『きまぐれロボット』なんかは軽く読めて好きでしたね。けれど、科学の道に進むようになったこの頃から、本気で読みたいと思うものは、小説ではなくなってしまった。『第二の性』なんかも出版されましたけれど、私が関心があったのは“女性”や“ジェンダー”よりも、“ふつうの女の子”の感覚。
そして、1966年に子供が生まれ、絵本や童話にもう一度出会います。『ケストナー少年文学全集』や『いやいやえん』……私の子供時代のものとは全く違っていて、実に面白い。生きているってどういうこと?命ってなあに?という本質がある。そう思いました。
それから、子育ての最中、たまたまジェームス・D・ワトソン『二重らせん』の翻訳を引き受けることになりました。これはこれまでの科学の本をひっくり返した本なんです。
DNAの二重らせん構造なんて誰も知らなかったところに、34歳でノーベル賞をもらった本人が、ドラマみたいな裏話を書くわけね。それまでは科学の本は教科書だけ。お勉強するものであって読み物ではなかった。
日本においては、個性の違う2人のノーベル物理学賞受賞者の著作が扉を開いてくれました。物理学者は人間だ、とおっしゃった朝永振一郎先生の『物理学とは何だろうか』、そして東洋的日本的文化の素養が根底におありになった湯川秀樹先生の『創造への飛躍』など。
科学や自然のことを一生懸命考えるとはどういうことかを、現在のように、私たちにわかる言葉で書いた最初の本ではないかしら。
70s:高度経済成長をよそに
出会った“壮大な知”
1970年代は、個人的には、生命科学という分野で生物のことを総合的に考えようと思い立った時。印象に残る出会いとなったのが、H・G・ウェルズと南方熊楠の著作です。ウェルズは、1930年代に出版された『生命の科学』(全24巻)が平凡社の地下図書室に一つだけあるというので、読みに行きました。
彼はその前に『世界文化史大系』(全12巻)を著していて、なんと壮大なことかと驚きました。すると同じ書架に、『南方熊楠全集』があって、「こりゃあ一体なんじゃ?」。ちょっと変で、まさに生き物を総合的に見ている。しかも日本人。
世の中には大きなことを考える人がいて、こんなふうにものを考えるのかと知りました。70年には万博があり、岡本太郎さんが《太陽の塔》の中に《生命の樹》をお作りになったけれど、当時は全然理解されなかった。
ロボットを作り、月の石を展示して、という高度経済成長期の中で、地底から何か出てきて生物の進化を表現するというのは、少し早すぎたのよ。
今、『日本再発見 芸術風土記』なんかを読むと、私が生命科学について考えてきたこととの共通点がいくつも出てきます。
一方、わくわくする本は日常的に手に取ったものです。例えば『日本沈没』。小松左京さんは創作のために科学者に色々お聞きになるのが得意。生物のことで話し合いをしたこともあるので、「わあ、すごいの書いたな」と思いながら読みました。
それからね、一回だけ電車を乗り過ごしたことがあって、それはジェフリー・アーチャーの『百万ドルをとり返せ!』を読んでいた時でした。