私の本棚の、主。翻訳家・小澤身和子

折に触れて読み返したり、一読の衝撃が忘れられなかったり。あるいは、腐れ縁のようになぜかずっと捨てられなかったり。自身の本棚に鎮座する“主(ぬし)”のような本を題材に、翻訳家・小澤身和子さんがエッセイをしたためた。

illustration: Tomo Oriyama / edit: Emi Fukushima

背後の本棚から感じる訳語に宿った強い覚悟

翻訳する私の後ろには、つねに本棚がある。年に二度整理される本棚の現状は、見るも哀れなくらいぎゅうぎゅうに本が詰め込まれていて、とても苦しそうなのだが、なんだかんだで本は増え続けている。

どこに何があるかなど、もはやわからないが、本から作家や翻訳家の顔が浮かんできて、翻訳する私の背中をじっと見つめながら、まさか、そんな訳で満足してるんじゃないだろうね?と問い詰められている気がつねにしている。勝手な妄想だが、背中に感じる圧は、普段ひとりで仕事をしている身としては意外と励みになったりもする。

今回、「本棚の主(ぬし)」と訊(き)かれてすぐに思いついたのが『闇の奥』だった。初めて読んだのは原書で、ハワイ島の大学に通っている時だ。当時二十歳かそこらの世間知らずの娘だった私は、主人公マーロウ同様、コンゴのジャングルの奥地にいるという謎の男クルツに魅了された。

この作品が描き出す西洋文明が隠蔽してきた植民地支配の欺瞞と人間の本性的な恐怖など、意味すらわかっていなかったと思うが、瀕死のクルツが叫ぶ「The horror! The horror!」という言葉と情景が頭にこびりついて離れなかった。難解なテキストを前に、家族に送ってもらって読んだのが中野好夫訳だ。

そこでこの言葉の訳を見た時の衝撃は、今でも忘れられない。今回二十年ぶりに本棚の奥から探し出してきて目を細くしながら読み続け、「地獄だ!地獄だ!」にたどり着いた時の高揚たるや。覚悟を持って選ばれた訳語の強さを思い知った。ある意味で、私の翻訳の原点ともいえる作品だ。

『闇の奥』ジョゼフ・コンラッド/著 中野好夫/訳
19世紀末のアフリカ大陸。ベルギーから派遣された貿易会社の船乗り・マーロウは、象牙貿易で名を上げるクルツという社員の噂を耳にする。密林の奥地にいるという彼に興味が湧くマーロウだが……。岩波文庫/792円。
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