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ニッポン洋食クロニクル。開国からレトロブームまで、150年の洋食物語 〜前編〜

トンカツ、オムライス、ナポリタンといった洋食は、ニッポン生まれの料理。南蛮貿易の時代から令和まで、洋食が辿った歴史を、国内外の食文化や歴史に詳しい、郷土料理研究家・青木ゆり子、生活史研究家・阿古真理、文筆家・井川直子の3人が紐解く。

illustration: Jose Franky / text: Yuko Saito

そもそも洋食とはなにか。大まかに言ってしまえば、江戸末期、開国によって欧米から入ってきた料理が、日本で独自に進化した西洋風の料理のこと。では、どのように進化し、広まっていったのか。そして、再び人気を集めている魅力はどこにあるのか。150年にわたる一大クロニクルを辿る。

阿古真理

江戸時代より前の16世紀後半に、ポルトガル、スペインとの間で南蛮貿易(1)が行われていたことが大きい。この時に、揚げ物が入ってきて、天ぷらという料理ができたからこそ、のちに日本独自の“フライ”が生まれたわけですから。

南蛮貿易を描いた屛風絵
(1)南蛮貿易を描いた屏風絵。この時に伝わった調理法が洋食に影響を与える。photo:ALBUM/AFLO

井川直子

ほんとにそうだと思います。フライパンでソテーするように火を入れる西洋式ではなく、粗めのパン粉をまぶした肉や魚介を、たっぷりの油が入った天ぷら用の深鍋で揚げることで、カツレツやエビフライが生まれたんですものね。

青木ゆり子

開国してほどなく、外国人料理人による西洋料理店(ホテル)ができ、江戸末期には、日本人料理人による西洋料理店〈良林亭(のちの自由亭)〉(2)も誕生。まず、西洋料理が広がっていきます。

西洋料理店〈自由亭〉があった頃の長崎の風景
(2)日本人料理人による西洋料理店〈自由亭〉があった頃の長崎の様子。photo:個人蔵

阿古

そもそも日本の誇る料亭などが供した料理が、外国の賓客(ひんきゃく)に不評だったという背景もあります。そこで、明治政府が正餐(せいさん)をフランス料理に決め、そこから、東京・築地の〈築地精養軒〉(3)など、外国人居留地やリゾート地に、外国人向けのホテルや西洋料理店ができるんです。

スイス人料理長を迎えて開業した〈築地精養軒〉の内観
(3)スイス人料理長を迎えて開業した〈築地精養軒〉の内観。関東大震災で焼失。photo:国会図書館ウェブサイト

青木

明治天皇が肉食を解禁し、1000年以上表向きは禁止されていた牛、豚、鶏などの肉食が再開されたことも、日本に西洋料理が広がっていくきっかけになったと思います。

阿古

実は、肉食禁止の時代にも、一部では結構食べられていて、水戸藩主の徳川斉昭などは牛肉の味噌漬けが大好物だったという話もあるんです。ただ、多くの日本人の食事は、肉や油がとても少なくて、江戸時代の人々の平均身長は、戦国時代より低かったという説もあるほど。

青木

とにかく、日本人は、西洋人に比べて体格で劣っていた(4)。すでに神奈川・横浜では、牛鍋屋(5)がもてはやされてはいましたが、彼らと対等に渡り合える体を作るために、西洋人に追いつけ追い越せと国レベルで肉食を勧めたんです。

井川

体格へのコンプレックスから、というのが面白いですね。

阿古

その後、さらに日本海軍が、脚気(かっけ)予防なども含め、カレーライス(当時はライスカレー)やコロッケなどの西洋料理を推奨するんです。

客が、外国人から日本人へ。そして、西洋料理が洋食に

青木

明治も半ばを過ぎると、それまで外国人や一部の特権階級の人しか食べられなかった西洋料理を、東京・浅草のような庶民の街の新しもの好きの日本人が、どうにかして食べてみたいと思うようになる。それを料理人が、日本にある具材やスタイルを取り入れて叶えたのが、洋食の始まりだと思っています。

井川

この時代は、外国航路の船から降りたコックや、宮内省(現・宮内庁)御用達の西洋料理店で働いていた料理人が独立して、町場に食堂を開いていった時代でもあります。

阿古

東京など、都会に限定されてはいましたけれどね。

井川

そんな中で、食べに来るお客さんが、外国人から日本人に変わっていったのが、ターニングポイントだったと、私も思います。東京・銀座の〈煉瓦亭〉(6)は、当初は外国人客向けの西洋料理店だったのが、居留地がなくなって外国人がいなくなり、日本人のお客さんばかりになったことで、メニューが変化したと聞いています。

〈煉瓦亭〉の木田元次郎と、2代目の孝一
(6)幾多の洋食を考案した〈煉瓦亭〉の木田元次郎(右)と、2代目の孝一(左)。photo:Hikari Koki

青木

例えば、その〈煉瓦亭〉が発祥とされるカツレツ。原型と言われる西洋料理のコートレットは、仔牛で作られることが多かった。ところが、当時の日本では、仔牛肉が手に入りにくかったので、牛肉や豚肉で代用したんですね。

阿古

まず、牛カツが人気になります。それが日清・日露戦争で、牛肉を軍隊に優先して送るようになって品薄になり、豚肉に替わっていった。特に、豚の生産地が多い関東では。

青木

仔牛のコートレットが、牛肉へ、そして庶民の手に入りやすい豚肉に替わったことで、のちにトンカツとして大衆化していきました。

阿古

上流階級の人たちは西洋人と付き合わなきゃいけないから、たとえ、おいしくないと思っても、頑張って食べるわけですよ。でも、そうじゃない人たちは、西洋料理を忠実に再現されても、おいしいと思わなければ、そっぽを向いてしまう。日本人を相手にしたらカスタマイズせざるを得ない。

そもそもご飯を中心に食事を組み立てていますから、自ずとご飯のおかずになるように工夫する。私は、洋食は“欧米から入ってきた料理をご飯に合うようアレンジしたもの”と考えています。

井川

明治38(1905)年に東京・御徒町に〈ぽん多本家〉を創業した初代は、宮内省の西洋料理人でしたが、自分はご飯が好きだったから、自店をご飯に合う洋食店にしたと聞きました。

阿古

当時の日本では、バターもチーズも、乳製品はすべて、臭いと思われていました。西洋料理が持つ、そうした“バター臭さ”や、スパイスなどの強い香りをマイルドにして、ご飯に合うようにアレンジしていったんじゃないかな。

井川

“ここにご飯さえあれば”というDNAレベルの欲求に向けて、繊細な仕事をする日本人の料理人たちが、元の料理をリスペクトしつつ手を加え、磨いていった。その意味では、“和食”ともいえるし、日本独自のクリエイションだと感じます。

阿古

カツレツにしても、天ぷらのように揚げてカリッとさせるのはもちろん、パン粉だって、パンの種類や粗さにこだわって、わざわざ作っている店が多いじゃないですか。

青木

海外の衣は、そもそも堅くなったパンの再利用がほとんどですから、そこまでこだわらない。日本のパン粉が近年、海外で見直されているのも、よくわかります。