『樹影譚』
丸谷才一さんは紛れもない文章のスタイリスト
丸谷才一さんは紛れもない文章のスタイリストだった。「名文家」というのでもないし、「美文家」というのでもない、また「才筆」という表現ももうひとつそぐわない。「文豪」という地点からはかなり遠く離れている。結局のところ「スタイリスト」としかいいようがないだろう。
だから彼が旧かなを捨てて文章を書くというのは、あり得ないことだった。もしそんなことをしたら、彼の文章のスタイルは根元から損なわれてしまったことだろう。スタイリストがそのスタイルを失ったら、いったいどこに行けばいいのか?文章の個人主義を最後まで頑固に守り抜いた作家だが、「孤高」という表現が似合わないところが、この人の持ち味かもしれない。
丸谷さんは多作家ではないが、それなりに多くの小説を書き残している。そのどれが「代表作」なのか、選択はむずかしいところだが、僕は個人的にこの『樹影譚』(1988年初版)が大好きだ。
少し長めの短編小説というところだが、文章にまったく無駄がなく、物語の奥が深い。読み返すたびにその印象が少しずつ変わっていく。色合いが変わり、風景の角度が変わり、肌触りが変わってくる。紛れもない名作だ。