松尾芭蕉、近松門左衛門、井原西鶴、芝全交、山東京伝(さんとんきょうでん)。新進気鋭の作詞家・児玉雨子にとっての「危険な読書」リストは、彼女が「沼」と評する江戸文芸。つばきファクトリーも近田春夫も、彼女が手がけるJポップの詞は江戸文芸がネタ元であるというから面白い。
リズムにも乗せやすい江戸文芸の「非意味」な響き
児玉雨子
江戸文芸との出会いは大学生のとき。近松門左衛門が最初です。
BRUTUS
近松というと、『曽根崎心中』や『心中天網島』といった男女の心中ものを思い浮かべますけれども。
児玉
心中ものもいいんですが、「危険」というテーマで選ぶなら、私は『冥途の飛脚』がおすすめです。大阪と江戸を往復する「三度飛脚」の忠兵衛が、遊女の梅川と恋に落ち、お金に困ってお客さんのお金に手を出してしまい、最後は逮捕されてしまう話なんです。
18歳で初めて読んだときは、ほかの心中ものと同じように、情けないのが泣けるじゃん!純愛じゃん!と思ったんですが、忠兵衛と同じ24歳になって読み返してみたときに、「バカじゃん!クソじゃん!金パクってんじゃねえよ!」って(笑)。
B
単なるダメ男の話だなと(笑)。
児玉
読み方が変わりました。近松のクールな文体も相まって滑稽に感じるようになったんです。いちばんのパンチラインはここです。「『イヤ大事。此の金持つては遣(つか)ひたからう措(お)いてくれうか。行つてのけうか行きもせい』と。一度は思案(しあん)二度は不思案三度飛脚(ぶしあんさんどびきゃく)。戻れば合(あは)せて六道の冥途の飛脚と」
B
児玉さんの本にも「ここやべー!」って書いた付箋が貼ってあります。
児玉
やろうかやめようか、いやもうやっちゃえ!で地獄へ落ちてしまう。最高にヤバい。危険です(笑)。近松の文章って韻(いん)を踏んでいるのでリズム感があって読んでいて気持ちいいんです。
たぶん、劇作家なので、上演することを考えて書いているからだと思いますが、そういうところが作詞家としてすごく参考になるんです。表現がいちいちきれいでカッコいいなって。日本語ってリズムが良くない言語なんですね。だから、Jポップのハネたリズムに日本語を乗せるのは結構大変。韻の気持ちよさだけを追求すると意味のない詞になってしまいますから。
韻や言葉遊びを大事にする江戸文芸の自由奔放さ
B
そういう意味でも、児玉さんが作詞したつばきファクトリーの「低温火傷」は素晴らしいですよね。「白銀 素敵 興味 かなしい 来週スノーボード行くらしい」。自分のことをほったらかしてスノボに行っちゃう男の子に対する女の子の心情を、韻を踏みつつ面白く表現していて秀逸だなと。
児玉
これはまさしく近松の影響で書いた詞なんです。あと、近田春夫さんのアルバムに書いた「今夜もテンテテン」もパクリレベルで影響を受けてます(笑)。
元ネタは芝全交の『大悲千禄本』。江戸後期に流行った黄表紙(*大人向けの絵付きの読み物)の一つで、千手観音の手を切って貸す、手貸し業をする話なんです。その発想がもうヤバい(笑)。
「今夜もテンテテン」
作詞/児玉雨子 作曲・編曲/坂東邑真
レッツダンス
点々 つけてくレディ
線々 繋げるオレ
ふたりだけの星座図さ
転々 恋の起承転
てんてこ舞いのエビデー
きっと今夜も・・・(テンテンテン)クラクラ
転々としてるベイベー
惚れ惚れしちゃうぜ オレ
でもそろそろ落ち着きな
転々 恋の起承転
誰々 それ何度目?
終着点は・・・(テンテンテン)有耶無耶
見つめ合えば・・・(テンテンテン)困るなぁ
日本音楽著作権協会(出)許諾第1813839-801号
B
手は動くんですか?
児玉
動きません。マネキンみたいな手をどう使うのか。孫の手みたいにかゆいところをかくためとか、ぬか床をかき回すのに自分の手だと臭くなるから観音さまの手でとか、字が書けないから観音さまの手で書いたらどうしても梵字になっちゃうとか(笑)。
B
観音さまはインド人だから(笑)。
児玉
いろんな人が観音さまの手を借りるんですが、下ネタも入ってくるんです。遊女が夜のお遊びに使うとか。
B
大人のおもちゃ的な(笑)。
児玉
最後、手はそれぞれ戻ってくるんですが、観音さまが「これはヌカ臭い、これは墨汁の臭いがする」って文句を言うのが最高で。「ひとさしゆびと中ゆびが、変なにほひがする。こいつはすこ合点がゆかぬわへ」
B
あはははは(笑)。
児玉
で、いちばん好きなのは、この話の終わり方。「手手てん手手てん手手てん手手てん手手てん」。お芝居の最後って、テンテンテンって三味線や太鼓が鳴るので、それと「手」とかけてるんですよ。上手!って。
B
現代文学にはない表現ですね。小説で韻を踏むこともいまはないですし。
児玉
黄表紙はナンセンスギャグみたいな話が多くて、山東京伝の『桃太郎発端話説』も面白いんです。『桃太郎』の前日談なんですが、『舌切り雀』や『浦島太郎』、鬼ヶ島の話とか藤原実方(*平安時代の貴族。天皇の怒りを買い左遷された悲運の人)の怨霊がスズメになる話とか、いろんな昔話をごちゃまぜにしたパロディなんです。遊び心満載でウィットに富んでいて言葉遊びがすごくうまい。
例えば、「かう腹がへりま大根(だいこ)と来ては、ふと印(じるし)といはれても、後へも先へも行くことは、ならずの森の鷦鷯(みそさざい)」
B
「腹がへりま大根」はツボるなあ。
児玉
オヤジギャグですから(笑)。「ふくら雀」にかけての「おふくら様」とか「雀は都とはよくいうたものぢや」とか、忠義とスズメの鳴き声をかけて「ちうちうの御恩」とか。本筋に関係のない言葉遊びが多いんです。「赤貝赤貝大事ない」とかね。
B
赤貝赤貝……?
児玉
意味のない言葉です。単純に海のシーンだから入れただけ。リズム感を出すためだけに意味のない言葉を挟むんです。でもそれは、いまの若者言葉と同じだし、Jポップも同じ。意味のない言葉を入れないとつらいときがあるんです。これは私の感覚なんですけど、歌に収まる話の量って決まってて、どんなに曲が長くてもそれは同じ。
つまり、恋愛も将来の夢もといろいろ要素を入れていくと、何を歌ってるのかわからなくなるし、歌が覚えられなくなる。そんなときに、ナンセンスな言葉を繰り返すんです。DA PUMPの「U.S.A.」もそうですよね。
B
カーモンベイビーアメリカ〜♪
児玉
私、「U.S.A.」の詞が大好きなんですけど、「どっちかの夜は昼間」って最高ですよね。意味なんてないけど、「確かに。うん」って(笑)。歌詞には意味のないフレーズが必要なんです。しかも、そのフレーズでドキッとさせなきゃいけない。「無意味」じゃなく「非意味」。意味に非(あら)ず。だから、「赤貝赤貝大事ない」はなくていいフレーズだけどあるだけで面白くなる。そういった江戸文芸のノリの良さ、自由奔放さがすごく好きなんです。
江戸の人たちはお金のことばっかり考えてる
B
ちなみに江戸文芸初心者はどこから入るべきですか?黄表紙ですか?
児玉
黄表紙は沼ですから(笑)。それこそ近松や、井原西鶴がいいと思います。西鶴の浮世草子『世間胸算用』は、年末の、大晦日の一日に繰り広げられる人間模様を描くオムニバスなんです。年末は一年を締めくくる総決算の時期。損した儲けた、そういったことが浮き彫りになるんです。江戸時代の経済って、いまとほとんど同じ。お金の貸し借りの仕組みとか、先物取引とか、為替とか。
現代はクレジットカードですが、江戸時代は「つけ」で買い物をするんです。だから、支払いをしなきゃいけない年末は、みんなお金の工面に奔走する。そういった年末の悲喜こもごもが書かれているんです。
B
あ、そういう話なんですね。タイトルしか知らなかったです(汗)。
児玉
面白くて読みやすいです。「問屋の寛闊女(かんかつおんな)」という話からオムニバスが始まるんですが、問屋の主人の女房が贅沢三昧で、わかりやすくいえば、ZOZOTOWNのつけ払いがたまっちゃった、どうしよう、って話です。
B
払えないとどうなるんですか?
児玉
江戸には自己破産の制度があって、男は破産すると財産没収になるんですが、女は差し押さえにはならない。お父さんや旦那が借金の肩代わりをして本人は免責されるんです。だから、問屋の女房はつけ払いでなんでも買っちゃう。問屋の主人も借金を重ねているんで、女房には文句を言えないんです。で、大晦日がやってくる。
80貫目を返済しなければならないけど金はない。そこで25貫目を両替屋に預け、それを元手に振出手形を乱発する悪知恵を思いついて乗り切り、正月を迎えるという。「埒(らち)の明かぬ振手形を、銀(かね)の替りに握りて、年を取りける。一夜明くれば、豊かなる春とぞなりける」
B
なんにも解決してないのに(笑)。
児玉
不安いっぱいの状態から華やかなオチになる。西鶴の話はすごくきれいにオチるんです。黄表紙のテテテンとは違うんです。それにしても、江戸時代の人ってお金のことばっかり考えてるなあって(笑)。誤解を恐れずに申しますと、私もお金について考えるのが好きなんです。
お金って人間が考えた素晴らしい発明品で、夢と現実が詰まっていて、人間を暴いてしまう不思議な手段だと思っています。だから好き(笑)。当時は町人・商人文化の時代だったこともあると思いますが、お金=悪の権化ではない、ということをこれを読んで改めて感じたんです。
B
しかも、「オマエもないなら、オレもない。大丈夫だ」みたいな、おおらかな雰囲気もありますよね。
児玉
『世間胸算用』の最後は、「常盤橋の朝日かげ、豊かに、静かに、万民の身に照りそひ、くもらぬ春にあへり」という言葉で結ばれるんです。つまり、「お金があろうがなかろうが、平等に朝日は昇ってくる」と。しみじみきちゃって。こういう読後感のある詞を私も書きたいなって。
作詞家としての心構えを松尾芭蕉が教えてくれた
B
江戸文芸にがぜん興味が湧いてきました。このまま沼にハマりそうです。
児玉
江戸文芸のいちばんの沼といえば俳諧(はいかい)。私は作詞家として、いちばん影響を受けているのが芭蕉なんです。
B
基本的な質問です。俳諧というのは、俳句とは違うものですか?
児玉
俳句は俳諧の句が独立したものなので、俳句の源流が俳諧なんです。なかでも、松尾芭蕉が蕉門と詠んだ俳諧「冬の日」が大好き。まず、芭蕉の発句がカッコよすぎるんです。「狂句こがらしの身は竹斎に似たる哉」
B
「冬の日」の出だしの句ですね。
児玉
俳諧は連句文芸なんです。いろんな人がお題に沿って詠んでいくのですが、この場合は、「狂句こがらし」をテーマにまず芭蕉が発句を詠み、それに続いて、脇句を岡田野水、3句目を山本荷兮(かけい)、一門が順番に詠んでいくんです。とにかく、ここから芭蕉は出てきているので、そのいちばん最初の句で竹斎と自分を重ね合わせているのがめちゃくちゃカッコいいんです。
竹斎は江戸時代の医者で、京で失敗して江戸へ下った人。そのときに各地で狂歌も詠んでいたという、「野ざらし紀行」の芭蕉よりも先人なんです。これは私の勝手なイメージなんですが、発句は挨拶の句でもあるので、「北風ビュービュー吹いてる中、竹斎のようにやってきたぜ、オレ。ヨロシク」って(笑)。
俳諧は和歌に対するカウンターなんです。雅な和歌では絶対にしない表現を俳諧でやる。いわば、芭蕉の決意表明なんです。歌に風穴を開けてやるぜと。これを読んだとき、これは私の決意表明でもあるなと思ったんです。というのも、いまこの時代に「作詞家です」と言うと、「いまどき?」とか「詞なんて誰でも書けるんだよ!」とか失礼なことを言われることがままあって。だから私も「作詞冬の時代、作詞家やってます。ヨロシク」って。
B
カッコいいなあ!
児玉
しかも、俳諧とJポップって、歌という大きな枠組みでは一緒だし、似てるところもあるんです。例えば、俳諧は決まり事が多い。発句は自己紹介文であり、それだけで世界が成立しなくちゃいけないんですが、次の脇句は発句と呼応しなくてはならず、体言止めじゃなくちゃいけないし、韻を踏まなくちゃいけない。
これは作詞も同じで、昔の歌謡曲は詞先が多かったんですが、いまは曲先。俳諧のように制約の中で作詞をするんです。そして、時代は変われどいちばん大事なのは最初の書き出し。私も芭蕉のようなカッコいい書き出しをしたいんです。