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手がけた本は15,000点以上。装幀者・菊地信義が語る背表紙の美学

装幀者・菊地信義さんが手がけた本は15,000点以上。文字、色、紙……細部にまで行き届いた、丁寧な仕事の数々を本好きなら頭に浮かべるだろう。中でも講談社文芸文庫の背表紙が並ぶさまの美しいこと。神保町の本屋を巡りながら、“背”へのこだわり、国内外の背表紙の変遷を教えてもらった。

photo: Masayuki Nakaya / text: Ryota Mukai

背表紙、3つの基本

はじめに背表紙の部位と意義を確認。(1)丸背と角背。前者が主流で文芸書や人文書に、後者はシリーズものによく見られる。(2)花ぎれはページを束ねる糸を縒り合わせたもので、これを固定し落丁を防いだ。今は背の補強と装飾の意味もあり、単色、ストライプ柄などバラエティ豊か。(3)タイトルと著者名の間に入るアクセントは背表紙を彩る装飾。「日本では画家による装幀が多く、愛着が持てるような可愛らしいアクセントになっていますね」

題名が先か、著者名が先か

約40年前、講談社文庫のリニューアルにあたり菊地さんが装幀を手がけた。「当時、文庫の背表紙は上に“題名”、下に“著者名”の順番でした。でもお客さんは作家で本を探していると思い、順番をひっくり返したんです」。最初はいろんな人に猛反対されたが、この菊地さんの“発明”は大成功、以降に生まれた文庫の多くはこのスタイルを踏襲している。

また、ローマ字表記を背表紙に初めて加えたのも菊地さんだ。「最近はとにかく目立つための派手な表紙が多くて、そのデザインをそのまま“背”にも使うせいか、余白のない、忙しいものが多いですね。背表紙が泣いてますよ。文庫やシリーズものの整った“背”は見ていて落ち着くし、家に置いておきたくもなる。背表紙本来の佇まいの良さというのがあると思うんです」

洋装背表紙の長〜い歴史

ヨーロッパでは厚みと重量がある羊皮紙を本に使用していた。綴じるためには紙の背になる箇所に穴を開け、落丁を防ぐために太い糸を同じ穴に何度も通しておく必要があった。そのため、下の写真のように「ブックバンド」と呼ばれる凹凸が背表紙に浮き出る。「いわばグーテンベルク以前からあるクラシックな背表紙。現代では不要ですが、これは装幀家が引用することで格調高い雰囲気に仕上がっています」

現行の『三島由紀夫全集』背表紙
ブックバンド/豪華な装幀は、手作業で制作されたもの。現行の『三島由紀夫全集』は現代仮名遣いだが、こちらは1つ前の全集で、三島が使っていた旧仮名遣いのまま収録。

表紙から背表紙へと移動した題簽

「背表紙の原型は何か知ってる?」と言いながら菊地さんが案内してくれたのは〈大屋書房〉。19世紀半ばに作られた左の本には背表紙がない!「洋装本が入ってくる明治時代まで背表紙はなかったんですよ。和本の表紙に貼ってある紙は題簽というもので、書名と作者が書いてある。背表紙というものを作ろうとなったとき、これを背表紙へ移動させたといわれています。洋装の背表紙に、和本の題簽を合わせる、和洋折衷の発想が日本の背表紙の歴史の始まりなんです」

東京〈大屋書房〉店内

漱石は日本最初のアートディレクター⁉

洋装本が日本に入って間もなく、背表紙に題簽を使わない作家が現れた。文豪、夏目漱石だ。「漱石はイギリス留学中に洋装本をいろいろ見たのでしょう。だから題簽は使わず、その代わりに画家の橋口五葉や津田青楓に背表紙を描いてもらっていました」。丸みのある文字はどこか可愛げがあるし、画家が描くだけあってアクセントも秀逸。明治38(1905)年の本だが、ほとんど今の形に近い背表紙のデザインだ。「漱石は中身の小説だけでなく、本の見た目も大きく変えたんです」

1968年に〈日本近代文学館〉が作った復刻版『吾輩ハ猫デアル』
写真は1968年に〈日本近代文学館〉が作った復刻版『吾輩ハ猫デアル』。中身は袋とじになっているが、これも当時の造本そのままでペーパーナイフで切って読む仕様。

昭和初期、背表紙は先端芸術だった

漱石が画家に装画を依頼したことで、本の世界で活躍する画家、アーティストが増えていく。「漱石のひと世代下の竹久夢二は日本画家でありながら、著作も多く本の装幀もこなして、今でいうイラストレーターのような存在でした。もう一つ下の世代には村山知義がいます。マヴォの一員で前衛芸術家のイメージが強いけど、ロシア構成主義に影響を受けた装幀を手がけています」。日本画からアバンギャルドなグラフィックまで装幀の百花繚乱時代は、昭和5(1930)年前後が豊作だそう。

東京〈ボヘミアンズ・ギルド〉店内
古書目録で「S(昭和)5」本を収集してます。(菊地)