日々の暮らしに馴染む民藝の手仕事のようなあんこに出会う
松江を歩くと、短い距離で風格ありげな和菓子舗に何軒も行き合う。県庁所在地とはいえ人口も多くはない町でナゼ?というのが正直なところだろう。そこにはお茶を愛した殿様の存在がある。その殿様こそ雲州松江藩7代藩主、不昧公(ふまいこう)こと松平治郷(はるさと)(1751〜1818年)。藩財政を立て直した立役者にして稀代の教養人で、とりわけ茶の湯を究め、茶人大名として後世に名を残した。
当時の華美な道具や派手な所作に走っていた茶道を嫌い、千利休の侘茶(わびちゃ)に立ち返って、堅苦しい形式にとらわれない質実で簡素な点前(てまえ)を良しとした。陶器や漆芸、木工など茶道具に関わる職人育成にも力を注いだという。
「茶の湯は稲葉に置ける朝露のごとく、枯野に咲く撫子のようにありたいという言葉を残しています」と話すのは彩雲堂の山口晋平さん。武士の嗜(たしな)みだった茶の湯は市中に浸透し、菓子の文化も育まれていく。
その伝統は連綿と受け継がれ、今も松江では番茶やコーヒーの感覚で抹茶を点(た)て一服するのが日常だ。その脇には必ず、お気に入りの和菓子が添えられている。
松江のお隣、安来(やすぎ)で生まれ育った河井寛次郎も、暮らしの中で茶を楽しんだ一人だ。朝に夕に茶を点て、訪れる人に気軽に振る舞った。そんな寛次郎が昵懇(じっこん)にしたのが〈風月堂〉3代目・中西万助。当代・池田健さんの祖父に当たる人物だ。
「祖父は頑固で不器用な菓子職人。戦争中も砂糖代わりの代用品を使うくらいなら作らない方がマシと休業するような人でした。華美な工芸菓子は嫌いで、シンプルだけど日々愛される菓子を作りたい。そのために小豆を一粒一粒選り分け、黙々と餡を練る。もの作りの姿勢に共感するところがあったのでしょう。河井さんとは意気投合して、頻繁に行き来があったと聞きました。京都にお菓子を届けに行ったら、喜んだ河井さんが抹茶碗を新聞紙に包んでヒョイと手渡してきたなんて話も」
寛次郎をはじめ柳宗悦、濱田庄司、バーナード・リーチ、棟方志功ら錚々たる面々も民藝指導の目的で幾度となく島根を訪れ、〈風月堂〉はもちろん〈三英堂〉や〈彩雲堂〉といった菓子舗とも交流を深めた。その足跡はお菓子の銘や扁額(へんがく)、揮毫に残されている。
質実や簡素を旨とし職人の手仕事を愛した不昧公ゆかりの松江には、民藝と通じ合う素地があったのだろう。民藝の巨人も認めた菓子舗の味は、今も引き継がれ愛されている。
風月堂
寛次郎と器の映りを何度も試し、祖父が完成させた景色と味を忠実に
創業は明治19(1886)年。初代・中西栄之助が京都伏見〈駿河屋〉で会得した白小豆の紅流し羊羹(ようかん)で評判に。その後、3代目の万助が風月堂の土台を築いた。
河井寛次郎の助言を得て生み出された小倉羹の「黒小倉」や、手漉(す)き和紙を敷いてカステラを焼き出雲の枕詞(まくらことば)、八雲を表現した「八雲小倉」は3代目のオリジナルだ。祖父から受け継いだ7種類の菓子は、材料も製法もそのまま。今も岡山産備中大納言や白小豆を手選りし、八重山の黒砂糖の塊をハンマーで砕き、小豆を炊いて餡を練り上げる。
欲は出さず、作る数はその日に売り切れるだけ。その味わいは素朴な姿と裏腹に、雑味がなく繊細この上ない。
彩雲堂 本店
不昧公ゆかりの菓子を、棟方志功の自由闊達で勢いある筆絵が包む
本店に掲げられた扁額は棟方志功によるもの。河井寛次郎を通じ出雲手漉き和紙の安部榮四郎と友情を育んだ志功は、生涯に10回以上松江を訪れて濃密なネットワークを築いた。彩雲堂の包装紙にも志功の筆絵が引用されている、彩雲堂は明治7(1874)年、初代・山口善右衛門が創業。
明治中頃には善右衛門が、当時絶えていた不昧公好みの菓子「若草」を復刻し、不昧公とのゆかりも深い。不昧公と民藝をつなぐ縁を感じる老舗だ。
三英堂 寺町本店
藤色の皮むきあんが層を成す様子を夜明けの空に見立てて寛次郎が命名
昭和4(1929)年、松江の名店で職人頭を務めた初代・岡栄三郎が独立し、松江藩御用菓子舗の子孫から製法を譲り受けて不昧公好み「菜種の里」を復元。職人に徹した栄三郎と親交を結んだのが河井寛次郎。民藝の展示会のため考案した菓子に寛次郎が授けた銘は「日の出前」。
皮むきあんを熱いうちに重ねて押す「しののめ造り」によるもので、寛次郎はそこに薄明の空を見た。ホロリとほどけて品の良い余韻を残す菓子に絶妙の銘だ。