昭和初期以降マグロの遠洋漁業で栄え、海の幸を求めて訪れる観光客も多い三崎。三崎漁港に隣接する「うらりマルシェ」は三崎マグロや三浦野菜を買う客でごった返し、港からは水中観光船にじいろさかな号が定期的に出港している。
三崎港蔵書室 本と屯
以前、真鶴を旅したときに訪れた『本と美容室』。静かな街で書店を併設する美容室を営むセンスに感銘を受けたが、運営元のアタシ社はさらに面白い試みを三崎で行っていた。その名も『三崎港蔵書室 本と屯』。書店でもなく図書館でもない、誰でも訪れていい街の蔵書室だ。
代表のミネシンゴさんは稀有な経歴の持ち主だ。美容師としてキャリアをスタートし、美容雑誌の編集者を経て再び美容師に。リクルートに勤め、在籍中にインディペンデントマガジン『髪とアタシ』を創刊。その後、独立して出版社〈アタシ社〉を設立した。しばらくは逗子を拠点に出版業を行っていたが、事務所が手狭になり6年前に三崎に移住した。横浜生まれで、横須賀より南にはあまり行ったことがなかったというミネさん。なぜ地縁のない三崎に移住を決めたのだろう。
「逗子にいた頃の繋がりを切りたくなかったので、東京にも出やすい渋谷から70km圏内の三浦半島内で物件を探しました。そうしたら、三崎に元船具店の空き物件が。なんと家賃は3万円!逗子や鎌倉では絶対に出ない物件です。それに、目の前にあったのは三浦市に2軒しかない新刊書店の1軒。出版社と書店が向かい合っているのも面白いなと思い、勢いで移住を決めました」
3000冊の本を運び込み、1階にずらりと並べた。すると、古本屋ができたと勘違いした地元の人が顔を覗かせた。
「うちは出版社なんです、でもよければ読んでいってくださいね、と扉を開けてたんです。そうしたらいつの間にか大人や子どもが集まる、溜まり場のような空間が出来上がって。じゃあお茶でも出さなくちゃと思い、後付けで飲食許可を取り、2017年に〈三崎港蔵書室 本と屯〉ができました。お金を払わなくても自由に本を読めるし、奥の小上がりでおむつを替えられる。三崎は公園が少ないから、路地で遊ぶ小学生たちが自由に出入りできる場所になればなあって。公園とお店のあいだのあいだのような場所ですね」
本だらけの中央テーブルが編集部になり、燃え殻の『断片的回顧録』、円城塔の絵本『ねこがたいやきたべちゃった』などを出版した。移住マガジン『TURNS』の編集を行ったことが三浦市の耳に入り、移住冊子『MIURA』の編集も手掛けた。暮らしの場であり、働く場にもなった三崎を、ミネさんはこう表現する。
「移り住む前は排他的なところもあるのかなと思いましたけど、三崎は昔から世界中から船が行き来し、観光客相手に商売をしてきた港町。だからみんな明るいんです。地方ならではの問題も抱えていますが、なんとかなるでしょってカラッとしている。なんといっても、年に一度の祭りには地元の人が何千人も戻ってくるんです。街が生きてるなあって、節々で感じます」
振り返れば、三崎にはすでに文化の種が撒かれていたとミネさんは言う。その一翼を担ったのが商店街の並びにあるカフェ〈ミサキプレッソ〉の藤沢宏光さんなのだそうだ。
「藤沢さんはYMOの高橋幸宏さんのマネージャーを経て、音楽プロデューサーとしても活躍されている方。三崎に越して〈ミサキプレッソ〉を切り盛りしながら、何か三崎でできることはないかと地元のかもめ児童合唱団をプロデュースしたんです。そうしたら瞬く間に人気が出て、KIRINJIや坂本慎太郎さんともコラボする大人気の合唱団になりました。今やアルバムが4枚も出ている。僕が来る前から、カルチャーが担保されていたわけです。すでに“三崎2.0”があったから、僕のことも受け入れられやすかったんじゃないかと思います」
古くからの街並みが姿を留め、〈本と屯〉のある三崎下町商店街には、昭和初期に建てられた看板建築が現存する。夕暮れ時の街角は、まるで映画のセットのようだ。
「三崎には熱海のように資本が入らなかったんです。だから自力でやるしかないんですよ。それが文化祭みたいな空気感を生むし、どうしても助け合いが生まれちゃう。その感じもいいなって」
東京からも遠くなく、家賃も安く、食材が豊かで、カルチャーも根ざしているとなれば、移住者も増える。実際、感度の高いショップがどんどんオープンしているという。
「僕らが最近よく口にするのは“暮らし観光”という言葉。『金閣寺を見に行こう』という親世代の観光から、現代の観光は大きく変わったんです。お茶して、おしゃべりして、海辺で夕日を眺めて、猫と写真を撮る。定食屋で、あわよくば居合わせた地元の人と街の話ができたら最高。大金を使わなくても、なんか楽しかったねって言える、そんな旅がしたいんです。『来て来て』『ここを見て』なんてアピールしなくても、若い人たちは楽しみを見出すのが得意ですからね。『あのぶっ壊れてた自販機やばかったね』なんていうので、僕は全然いいと思うんです」
夕暮れの三崎下町商店街を眺めていると、通りすがりの男性がミネさんに声をかけ、髪を切る予約を入れていた。店の外にいた藤沢さんには、ご近所さんが「これよかったら」と紹興酒を手渡し去っていった。美容室でインナーカラーを入れた小学生は、お迎えに来たお母さんたちと中華料理店へ。知らない日常に溶け込む観光は、確かに新鮮だった。