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本を読み、コーヒーを味わい、髪を整える。真鶴半島に生まれた〈本と美容室〉

箱根、湯河原、そして熱海というきらびやかな観光地に囲まれながら、エアポケットのような落ち着きをみせる町、真鶴。「美の基準」という独自のまちづくり条例を掲げ、起伏の激しい傾斜地には家屋が整然と立ち並ぶ。近年は移住者が増え、新しい店も続々。2022年9月にオープンした〈本と美容室〉もそのひとつだ。

photo: Jun Nakagawa / text: Neo Iida

真鶴が位置するのは、神奈川県の南西部。相模湾にぴょこんと飛び出した半島が羽を広げた鶴の姿に見えることから、この地名が付いたそうだ。起伏の激しい地形は、箱根火山がカルデラ(火山活動で生まれる窪地)を形成した13万〜23万年前頃、噴出した溶岩が連なって生まれたもの。だから傾斜が多く、JR真鶴駅で下車して町へと向かうと自然と坂道を下ることになる。通り沿いに点在するのは、鮮魚店、精肉店、酒店などの個人商店。遠くには真鶴港と、停泊するたくさんの漁船が。到着からわずか数分で、のどかな真鶴の空気に包まれてしまう。

真鶴港沿岸
真鶴港沿岸には魚の繁殖や保護を目的とした森林「魚つき保安林」が。その栄養分が地下から海に流れ出て、豊かな漁場を形作っている。

昨年9月にオープンした〈本と美容室〉は、書店を兼ねる新しい形のヘアサロンだ。〈出版社アタシ社〉の代表であり、三崎で蔵書室〈本と屯〉と美容室〈花暮美容室〉を経営するミネシンゴさんが立ち上げたプロジェクトで、やがて全国への展開を考えているという。その1号店となる真鶴店では、古い木造家屋を改装してサロンスペースにし、小さなキッチンを併設している。

庭には八角形の小屋を建て、壁面の本棚いっぱいに新刊本を詰め込んだ。美容室の利用客だけでなく、本を目当てに来店する人も多いという。サロンの奥にある廊下が、この小さな書店の入り口になっている。

〈本と美容室〉外観
書店部分は、外から見ると一見サウナのように見える。

店長を務める高山紗季さんは、いろんな出会いが重なって真鶴で働くことになったという。原宿で美容師をしていた頃、宿と出版社を営む〈真鶴出版〉のことを知り、試しに宿泊したら真鶴が好きになった。以来頻繁に訪れるようになり、何度目かの滞在中に「出張美容室」の存在を知る。町の美容室の一席を借り、東京で経験を積んだ美容師の菅沼政斗さんが髪を切ってくれるのだ。移住者にも、真鶴の町の人からも大人気で、予約はあっという間にいっぱいに。高山さんは「こんな働き方もあるんだ」と関心を持った。

「ミネさんと菅沼さんが働いているお店が三崎にあるのを知り、予約を入れました。その頃、このまま忙しく東京で働くのってどうなんだろうと思い始めていて、髪を切ってもらいながら『私もあんなふうに働いてみたいんですよね』と話したんです。そうしたら『真鶴に店を作ろうとしているんだけど、やってみない?』と声をかけていただいて」

〈本と美容室〉店長・高山紗季
高山さんは横須賀の自宅から2時間かけて通勤中。「前は全然本を読まなかったんですけど、この時間を使って読書するようになりました」。

オープンしてまだ数ヵ月だが口コミで話題が広がり、都会から湯河原や小田原に移住した人たちも訪れるという。

美容室ではカラーや散髪の間に雑誌やタブレットを渡されることが多いが、〈本と美容室〉では高山さんがお客さんごとに本や写真集をセレクトしている。

真鶴町のまちづくり条例「美の基準」をまとめた冊子
必ず選ぶのが真鶴町のまちづくり条例「美の基準」をまとめた冊子。家を建てるときに気をつけるべきポイントが、建築家、弁護士、都市計画家の意見を仰ぎながらまとめられており、デザインを考える読み物としても面白い。

「私も本について詳しいわけではないんですけど、お客さんの好みや雰囲気を見て『この本が合うかな?』と考えながら選書しています。美容室で料理本を見ることってないと思うのですが、結構喜んでもらえたりするんですよね。写真集をめくりながら『この写真いいですよね』って話が繋がっていくこともありますし、小説やエッセイの場合はぐっと読み込んで、そのまま買っていかれる方も」

週末はキッチンに〈珈琲 縹〉がオープン。茅ヶ崎で自家焙煎を行う店主の田原圭さんが、ネルドリップでコーヒーを淹れてくれる。豆は全て深煎りで、豆はエチオピアやコロンビアなど数種類から選べる。

菅沼さんが出張美容師として店に立つこともあるが、基本的には高山さんが担当するので、施術中は1対1の穏やかな時間が流れる。陽がたっぷり差し込む空間で髪を整えてもらい、最後にはコーヒーを。小屋のベンチで目利きが選んだ本を味わうのも楽しい。忙しない日々を忘れて頭の先から癒やされる、そんな空間だ。