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効率重視の世の中で“鈍く考える”。ブックディレクター・幅允孝が本を読む理由

鈍考・どんこう──〈早稲田大学 国際文学館(村上春樹ライブラリー)〉や〈こども本の森〉のディレクションを手がける幅允孝さんから、ちょっと不思議な造語が差し出された。スピードと効率重視の情報過剰な世の中で、「鈍く考える」ために本を読む。一体どういうこと?

photo: Kazuharu Igarashi / text: Masae Wako

時間の回転数を落とし、深く「鈍考」するため

「これからもずっと本に携わっていたい。そのためには“時間の流れが遅い場所”がどうしても必要だと、最近強く感じているんです」

きっかけは、ガブリエル・ガルシア=マルケスの長編小説『コレラの時代の愛』。少し時間ができたので、久しぶりに読み返してみたところ、「びっくりするほど読めなくなっていて、ショックを受けました。あんなに好きで何度も読んだ作品なのに、集中できない。長いものを読む筋力が著しく落ちていたんですね。

原因の一つは、走り読みや斜め読みに慣れすぎてしまったこと。時間をかけてゆっくり取り込まなくては自分のものにならないし、読む筋力も保てないのだと改めて思いました」。

重ねて今は、情報や雑音が絶え間なくなだれ込んでくる時代。30秒でどれだけ面白がらせるかが勝負のエンターテインメントが増え、アルゴリズムで選ばれたネット番組が、空いた時間をどんどん埋めていく。

「楽しくはあるんですよ。でも気づくと時間の奪い合いに呑み込まれそうになる。どんなことにも素早く反応すべき、みたいに思わされている感覚が、ぬぐえないままなんです」

敏感になりすぎた社会から抜け出すためには、意識的に時間の回転数を落とさなくちゃいけない。そう考えた幅さんは、京都郊外に自宅を兼ねた私設図書館を計画。東京との2拠点生活を始めることにした。

「最寄りは、叡山電鉄という鈍行列車の小さな駅。東京とは全く違う、ゆるやかな時間が流れている場所です。ここで過ごす日は、静かな空間に身を沈め、物思いに耽ったり読書に集中したりできるといいなあ。そう考えていたら、ふいに“鈍考”という言葉が浮かびました」

そんなわけで、幅さんの目下のテーマは鈍考。過敏になった脳を緩め、愛する世界にどっぷり浸るイメージだ。読書の愉楽を取り戻すには鈍考が必要だし、読書こそが鈍考する時間をもたらすとも思っている。

「本の──特に紙の本の魅力は、書き手が決意と覚悟をもって絞り出した言葉の世界を、一人きりで迎えに行けるところ。そういう本は、30秒どころか10分読んでも核心には触れられない。ある程度の時間をかけ、階段を一歩一歩下りるように潜って初めて、押し寄せてくる純度の高い感情やアイデアに出会えるんです」

〈BACH〉代表、ブックディレクター・幅允孝

「鈍考」をテーマに選書するとしたら?

幅さんが選ぶ「鈍考に導く本」の1冊目は、小林秀雄の『読書について』。エッセイ集であるこの本は、何しろ読みやすくわかりやすい。

「読書論として非常に面白いんです。例えば小林は、“とにかく全集を読め”と言う。代表作だけでなくその周辺にある小品や、対談などのちょっとした発言も読むことで、作家の人間性に肉薄できるから、と。確かにその通りなんです。人間性を丸ごと知れば、書き手がどういう意図でその言葉やアイデアを出したのかまで自分の頭で想像できる。本の世界に深く沈み込めるんです」

「深く浸る読書」に、ちょっと別の角度から導くのが、アメリカの心理学者ジェームズ・J・ギブソンの『生態学的知覚システム―感性をとらえなおす』。身体が環境を意識し予感し探索することで得られる意味、いわゆるアフォーダンスの話である。

「“気がついたら本に浸っていた”というような読書空間を作りたくて読み返した一冊。人の知覚がどう形作られていくのかを知ることは、あらゆる場面で必ず役に立つはずです」

『American Utopia』は、スパイク・リー監督の同名映画から生まれたグラフィックブック。デイヴィッド・バーンの文章とマイラ・カルマンのイラストが、映画の世界観を軽やかに伝えている。幅さんはオリジナル版と日英併記版の両方を所有。

「作品に宿る“世界を肯定する強い気持ち”を、常に眼前に置いておきたかったのです。そういえば最近、講師を務めている大学の学生たちが、電子書籍から紙の本に戻ってきている。“音楽はサブスクリプションで聴くけれど、本当に好きな盤だけはレコードで聴く”みたいな感覚で、大事な本は紙で持つ人も増えています。自分にとって大切なものほど、体との親和性が高いメディアで持っておきたいのかもしれないですね」

中には「デジタルで本を読むと、文章が滑っていく」という学生もいて、幅さんいわく、その理由に近づけるのがメアリアン・ウルフの2冊。

「2008年に邦訳された『プルーストとイカ──読書は脳をどのように変えるのか?』は、文字を読む脳の仕組みに光を当てた一冊です。彼女はもともと識字の研究者。“人は本を読むもの”ではなく“人は本を読めないもの”という地点から論じているところに説得力を感じます。

2020年の『デジタルで読む脳×紙の本で読む脳』で提案しているのは、電子書籍と紙の本、それぞれにふさわしい読字回路を使い分けるバイリテラシー脳を育むこと。デジタル時代ならではの深い読み方にも触れられます」

ところで、幅さんは最近、日々のスケジュールにあえて読書の時間を入れているという。1日に2時間、あるいは90分。ヒントになったのは、立ち上げにも関わった図書館〈こども本の森 中之島〉だ。

「一人90分間の予約制なのですが、大人も子供も驚くほど真剣に本を読んでいるんです。時間をフレーミングすることで、“90分しかない。よし読むぞ”とスイッチが入るのでしょう。人があんなに集中して読書している姿を、僕は本当に久しぶりに見た。感動しました。

で、改めて思ったんです。深くゆっくり鈍考して、人生にすこやかな時間を取り戻したい。その切実な思いを叶えてくれるのは、やっぱり本だけなんです」

深く潜るように「鈍考」するための5冊

『読書について』小林秀雄/著、『生態学的知覚システム―感性をとらえなおす』ジェームズ・J・ギブソン/著、『American Utopia』David Byrne/著、『プルーストとイカ 読書は脳をどのように変えるのか?』メアリアン・ウルフ/著、『デジタルで読む脳×紙の本で読む脳 「深い読み」ができるバイリテラシー脳を育てる』メアリアン・ウルフ/著
『読書について』小林秀雄/著
批評の神様による読書法エッセイをまとめ、哲学者の木田元が解説。「難しいと思われがちな小林の文章ですが、これは極めて読みやすく、本の読み方についても具体的に書かれています。濫読(らんどく)や併読という独特の読書法や、作家志願者への助言も」。中央公論新社/1,430円。

『生態学的知覚システム―感性をとらえなおす』ジェームズ・J・ギブソン/著 佐々木正人、古山宣洋、三嶋博之/監訳
著者はアメリカの知覚心理学者。「読書に心地よく没入できる環境はどう作るんだろうと考えた時、この本から大きなヒントを得ました。環境が人に与える情報を、身体や五感はどう把握するのか。知覚と行為について考えるうえで役立つ一冊です」。東京大学出版会/5,280円。

『American Utopia』David Byrne/著 Maira Kalman/イラスト
希望とユーモアに満ちたカラフルなイラストは、映画冒頭に登場する緞帳(どんちょう)の絵を描いたNYの人気作家マイラ・カルマン。「ピーター・バラカンが翻訳した日英併記版もあり、2冊を比べると本や絵の雰囲気が少し違って見えるんです」。Bloomsbury Publishing USA/24ドル。

『プルーストとイカ──読書は脳をどのように変えるのか?』メアリアン・ウルフ/著 小松淳子/訳
認知神経科学やディスレクシア(読字障害)研究を専門とする著者の代表作。「古代の文字を読む脳から読書の達人の脳まで、脳はどうやって読み方を学び、読む回路を育てるのか。それを知ることは未来の読書のために必要だと論じられます」。インターシフト/2,640円。

『デジタルで読む脳×紙の本で読む脳:「深い読み」ができるバイリテラシー脳を育てる』メアリアン・ウルフ/著 大田直子/訳
デジタル書籍と紙の本が共存する中で、「より深く読める脳」をどう育てるかを探る。「科学の本ですが、著者自身が無類の読書好きなので、随所に出てくる本や詩の話が魅力的。名著からの引用をもとに、読書と脳の話を深めていく手腕も見事です」。インターシフト/2,420円。