福岡伸一
小林さんはキュリー夫人をテーマに執筆されていますが、今日の議題は物理学?私の専門は生物学ですが(笑)。
小林エリカ
今日ぜひお話ししたいと思っているのは「見えないものを見る」というテーマなんです。放射能について調べていく中で強い印象を受けた話があって。それはラジウムを発見し、世界で初めてそれを目に見える形で取り出したキュリー夫人がそれを「妖精の光」と呼んで、毎晩枕元に置いて眠っていたというエピソードです。
福岡
ラジウムは目に見えませんが、すごい量の放射線が出ていると大気中の水分子などを振動させて青い光に変えるんです。その状態でそばに置いておくのはかなり危ないでしょうね。
小林
私が感動を覚えつつも不思議に思うのはまさにそこで、危険とわかっていながらもその光に魅了されてしまった彼女の気持ちはどんなものだったんだろうと。そこには「見えないものを見たい」という強い欲求があったと想像するのですが、じゃあその欲求というのはどこから来るものなのかと。
実際、作家としての私の中にも同じような気持ちがあって、それで放射能とその歴史について書き続けているわけですが。先生は細胞というミクロな世界を探求されていますから、その「見えないものを見たい」という願望についてどんな考えをお持ちか伺ってみたいと思っていたんです。
福岡
興味深く難しい質問です。多分そこには「集めたい」という気持ちがあると思うのですが、それを考えるにはまず「エントロピー増大の法則」についてお話しする必要がありそうです。
小林
いきなり超難解なワードが出てきましたね!
福岡
エントロピーとは「混沌」という意味です。宇宙の大原則として、すべてはエントロピーが増大する方向にしか動きません。つまり、秩序あるものは混乱し、集まったエネルギーは分散する。整理整頓した机は散らかるし、熱いコーヒーも、熱烈な恋もいつか冷めてしまいます。でもそんな宇宙の法則に抗おうとするのが人間なんです。
小林
散らばっていくものを集めたい欲求があるんですね。
福岡
そのエントロピー増大の法則への抵抗を絶え間なく行っているのが人体です。あらゆる細胞はエントロピー増大の法則に従って壊れていきます。でも細胞はなんとかそれに抗おうとしていて、細胞が自然に壊れる前に先回りして自らを壊し、その不安定さを利用して新しい細胞を作り出す活動をしています。
小林
細胞レベルで抵抗を⁉
福岡
そうしてすべての細胞を絶え間なく入れ替え続けることで私たちは「生きて」いるわけです。私はそれを生命の「動的平衡」と呼んでいますが、細胞の抵抗も虚しく、徐々にエントロピーの増大に追いつかれてしまう。つまり作られる細胞より壊れていく細胞が増える。そうやって人は老い、死を迎える。
小林
どれだけ頑張っても若さを保てないのはエントロピー増大の法則のためなんですね……。
福岡
エントロピー増大の法則を知るにはシュレディンガーの『生命とは何か』を読むといいですよ。彼はDNAの存在が明らかになるずっと前に生命がエントロピーの増大に反抗しているという生命における最も大事なことについて洞察したんです。
小林
予言者のような人ですね。
福岡
そのうえで「見えないものに魅了されてしまう」という人間のあり方について考えてみましょう。人間には世界の不思議や精妙さを解明したいという思いがあります。でも世界のあらゆるものはエントロピー増大の法則に従って散り散りになっています。
実際ラジウムは鉱石の中に分散していますよね。その存在を明らかにするにはまず散らばったラジウムを集めて濃縮し濃度を高めなきゃいけない。そうでないと分析できないから。
小林
そうか、集めて濃縮する過程で見えなかったものが見えるようになったんですね。
福岡
その結果、人間は集めたものがパワーや価値を持つと知ったんでしょう。でも一方で集めすぎると危険が伴ったり、制御できなくなったりする。原子力なんていい例ですよ。こうした行為はエントロピー増大の法則に抗うものですが、世界の不思議を解明したいと願う人間にとって、それは不可避的な世界認識のあり方だと思います。
小林
キュリー夫人がラジウムを枕元に置いていたのも腑に落ちます。ということは、人間はエントロピーの増大に抗い、さらに危険も承知であれこれを集めることでしか世界の不思議に触れられないのでしょうか?
福岡
昆虫学者のファーブルは、虫を殺して標本を集めませんでした。彼は虫をただ観察し、その生きざまを記録し称賛したんです。そうすることで要素還元的で分析的な生物学のあり方に反旗を翻した。そういう意味で彼は私にとってのヒーローです
相対するものの境界に
本当に豊かな世界がある
小林
私が尊敬する作家にスヴェトラーナ・アレクシエーヴィッチという人がいるのですが、彼女は事故後のチェルノブイリで人々のインタビューを収集して作品を書いています。本の中で彼女は「裁くのは時代にまかせましょう」と言います。
自分の仕事は善悪を裁くことではなく、その判断を未来に託すことだという姿勢にとても共感するんです。彼女もある意味で時代の観察者なのかもしれませんね。
福岡
何かを裁いたり解釈したりするのは分節線を引くということですからね。例えば水にインクを落とすとインクが拡散しますが、分節線を引くとはそれを青い水と透明な水に無理やり分けようとするようなものです。
小林
世界を分節化していくと大切なものがこぼれて落ちる気がします。私が描きたいのも歴史や放射能に対する善悪では決してなくて、分節戦を引いた時にこぼれ落ちてしまうようなことなんです。それを書き残すことで百年後、千年後の未来を生きる人々に判断を託すようなやり方ができるんじゃないかと。
福岡
分節線の「あいだ」にあるものですね。それが文学の役割だと思います。でも今の社会では分節線を引くことが価値のあることだとされます。だからすぐに善悪の判断を求めるし国境線を引きたがる。でも世界はそんなふうにはできていなくて、混じり合っている。その状態をそのまま記述しようとしたのがファーブルでありアレクシエーヴィッチだったんだと思います。
小林
まさに「あいだ」です!
福岡
生物学でもその「あいだ」というのはとても大切で、相反するものがぶつかるところに多様性が生まれるんですね。例えば川と海が出合う汽水域には明確な境界線は存在せず、塩分濃度が緩やかに推移して常に揺らいでいます。淡水と海水に棲むさまざまな生物が交じって、命がひしめいているんです。
小林
異なるものが出会うところこそが豊穣なんですね。人間の考え方にも汽水域のような場所を作れたらいいなと思います。
福岡
まずは一人一人が相反するものの真ん中に立って耳を澄ましたり目を凝らしたりすることです。汽水域に立って足元の砂地に触ってみたら、そこに豊かさがあると気づけるはずです。
小林
揺らぎの中に身を置く。
福岡
そのために大切なのはビッグクエスチョンを持つことです。例えば「生命とは何か」というのは理系の人だけが持つ問いではなくて、あらゆる人間が持つ永遠の問いです。そうした、大きな「?」を持つこと自体がすでに汽水域に立っているということなのではないでしょうか。
小林
大きな問いを持つと因果律によって性急に答えを出せません。それは「世界は複雑だ」と認めることでもあります。そういう意味では文系/理系の間に線を引くこと自体ナンセンスですね。両者が混じり合うところにこそ、見えないものを見るためのヒントがあるのかも。
福岡
世界には単純な因果律はない。揺らぎの中から生まれるものが面白いし、大切なんです。
福岡伸一が選ぶ3冊。
テーマは「世界に対して大きな問いを持つ」
世界は因果律だけで語れるほど単純ではない。因果律では答えの出ない大きなハテナを持って、まずは世界の複雑さについて考えよう。
小林エリカが選ぶ3冊。
テーマは「目に見えないものに惹かれてしまう謎」
「見えないものを見てみたい」。人がそう欲するのはなぜだろう?その欲求を突き詰めた人の本を読み、その根底について考えたい。