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釣りと人生の感慨を捉えた名著『黄色いやづ』

“いい釣りってなんだろう”を考えてみる。フッキングさせるテクニックよりも大事なのは、釣りがある人生そのものだと、気付きを与えてくれる一冊。

Photo&Text: Toshiya Muraoka

漫画『釣れんボーイ』のいましろたかしが表紙イラストを描いていることもあって手に取った真柄慎一短編集『黄色いやづ』が素晴らしかった。

フライフィッシングの専門誌に掲載されたエッセイを編んだものだが、釣りそのものを描いたシーンは多くなく、それよりもむしろ釣りに出かけていく前後、あるいは釣りを通して出会った人々にまつわる思い出が中心となっている。なぜ“釣り文学”として素晴らしいのかといえば、釣りが人生とは切り離せない一部であると示しているから。こんな文章がある。

あの頃からは考えられないことだが、僕は今では車で釣りに行っている。会社に仕事用の車を用意してもらった。その車を休日にも使っていいとのお許しをもらった。電車で通った流れより、もっと先へ、もっと遠くへ行けるようになった。

湖にも行けるし、本流にも行ける。しかしサンデー・アングラーになったのだ。あの頃のように滅多に釣り人には会わないなんてことがなくなった。

山形から上京して歌舞伎町のスーパーで働きながら、幼いころに親しんだ釣りを再開し、のめり込んでいく。貧乏時代に電車で通った川を過ぎ、車で遠くの川まで行く自分。大人になって会社員となり、今では子どもと共に釣りに行くようになっている。

釣り 川

さして珍しいわけではない人生に、しかし特別の感慨を与える瞬間がいくつも訪れる。その瞬間を無理につくり出すのではなく、日々の営みの中に訪れたときに記したもの。だから10年に一冊というゆっくりとしたペースでしか本が出せない。だが、本を出すために釣りをするわけでもなく、釣りのために生きるのでもなく、それらの歩調がぴったりと合っているからこそ読者の胸を打つのだと思う。

「いい釣りだったな」と振り返る釣行は、単にでかい魚が釣れたり、大量に釣れたときではない。釣りの一連に人生の機微が織り込まれたときに「いい釣りだった」と釣り人は言う。

『黄色いやづ』には、「いい釣り」ばかりが並んでいて、思わず涙さえこぼれてしまう。