洋食の地位を引き上げ、守り、さらなる革新へ
〈小川軒〉は1905年、20代前半だった初代・小川鉄五郎さんが東京・汐留に開いた洋食店に始まる。「祖父は次男だったから、好きなことしていいということで、築地の鉄砲洲にあった外国人居留地に英語を習いに行くんです。そこで洋食に接したんでしょうね。コックになりたいと横浜に行き、レストランで技術を身につけて小川軒を開いたようです」と、3代目の“ムッシュ”こと小川忠貞さん。店舗は汐留から新橋、そして代官山へ。
小川軒の真骨頂は、次から次に繰り出される小皿オードブルだ。ヒラメのカルパッチョ・白いドレッシング、ハマグリのグラタンなどなど、季節を映す小皿料理に、次は何だろうとワクワクが止まらない。このスタイルはムッシュの父、2代目・順さんの考案による。
戦後、帰還したのち、庶民の味だった洋食を「高級感のあるものにしたい」と打ち出した。戦時下、中国で触れた点心やマレーシアで接した英国人の影響、また、懐石料理へのリスペクトもあったろうと、ムッシュは推測する。
父はまた、醤油や鰹出汁(かつおだし)、日本酒も躊躇(ちゅうちょ)なく使っていた。洋食のルーツともいうべきフランス料理を根底に据え、その技術を遺憾なく発揮しながらも、日本人の口に合い、誰もが親しみを覚える洋食という形に昇華する。父が見出した道だった。
父は70年代になると、フランスへ年に2回は出かけ、ヌーヴェル・キュイジーヌ華やかなりしリヨンで、ポール・ボキューズ、トロワグロ、アラン・シャペルなどを訪ね、勉強に励んだ。世界のトップ・オブ・トップの料理人たちの仕事の真髄を洋食に生かそうという強い思いがあったのだろう。帰りにはフランス、北欧などの器を買い求め、店へ持ち帰ってきた。
小川軒で出される、リモージュやジノリ、アラビア、ロイヤル コペンハーゲン……。今でこそポピュラーになったが、当時は輸入されていないものも多かった。新しいレストラン洋食というスタイルを明確に打ち出すために、これらの見たこともない器たちは必要不可欠のものだった。レストランは総合芸術。料理だけではなく、器もカトラリーも真っ白いクロスもサービスも、店主が統べてこそレストラン洋食になるということだ。
オムライスやハンバーグステーキ、ビーフカレーといった、いわゆる洋食屋さんの定番もあるものの、食べてみるとまったくの別物。清く潔い味で、シチューのデミグラスソースは何だかわからないけれど深くやさしく、幸せな世界へと誘ってくれる。さぞかし、いい食材を使って、丁寧に手をかけて作っているに違いないと、若かった自分にも一口でわかった。
デミグラスソースは3ヵ月近くかけ、継ぎ足し継ぎ足しで作る。カレーもできたてを出すことはない。必ずねかせてから提供する。老舗のウナギのたれや蕎麦つゆではないが、継ぎ足すことで、また、ねかせることで味がこなれていく。これぞ、日本ならではのテクニック。フランス料理では聞いたことがないという。
父が鬼籍に入ったのち、ムッシュが厨房に立っていると、「俺はオヤジの料理を食べに来たんだ。息子の料理なんか食えない」と帰ってしまう客がいたり、少しでもフランス料理に寄りすぎると、「これは小川軒の料理じゃない」と皿をはじかれたり。父の時代からの客が、フランス料理でもイタリア料理でも日本料理でもない、小川軒が築いてきたレストラン洋食の味を一番理解し、愛していたのである。「そうやって、育ててもらったんです」
オムライスをお願いすると、ムッシュが卵4個を溶きほぐし、塩を加える。オムレツ用のフライパンにサラダ油を熱し、卵を流し入れると、向かい側の火口で調理スタッフが、バターで温かいご飯と、炒めたご飯粒大の鶏肉を炒め合わせ、“味のもと”(赤ピーマン、ロースハム、玉ねぎ、サフランなどで作ったピラフ用の調味料)を加えてピラフを作る。
「卵はゆっくり回して」と言いながら箸で混ぜて半熟状にしたところに、炒めたご飯を投入。オムレツの要領でトントンと鍋の柄を叩き、くるりとご飯を包む。「オムライスはオムレツ料理のひとつなんです」とムッシュ。卵は絶妙の半熟状態。「ご飯と周りの卵が同じくらいの食感になるように仕上げます」。自家製のケチャップと、自家製のピクルス(らっきょうと紅生姜(べにしょうが))が添えられる。この枝葉末節に至る緻密さが特別の味を作り出す。
4代目・忠紀さんは、フランス修業から帰ってからもう15年、父とともに働く。「父が祖父の味を守りながら深め、極めていったように、小川軒のイメージを壊すことなく守っていけたらと思っています」。「僕は父の後ろに立っているだけ」と言いつつ、しっかりと味を受け継ぎ、後方から3代目を援護する。「できれば息子にも跡を継いで欲しい」。洋食の老舗の輝かしい未来は、脈々と繋がる味の伝承の上にある。