夜な夜な対峙する、いつかの1冊
人生で初めて人の本棚を見たのは、大学生のころ、卒論の中間報告に伺った、教授の研究室でのことでした。腰窓の前に教授の机があり、その机を挟んだ両壁に本棚(頑丈そうなスチールラック)が据えられていたように記憶していますが、十年以上前にいちどきり入った部屋のことなので、何しろ心許ないです。記憶の上では昼間で、部屋は薄暗く、本棚に並ぶ本は皆、青ざめているようでした。
教授が私の卒論に目を落とされている隙をねらって、私は本棚をじろじろと見ました。しかしすぐに教授が顔を上げられて何かとご質問されるので、集中して見ることができず、途中からは本棚どころではなくなってしまい、結局そのまま部屋を出ました。
そのため今思い返してみてそこにあった気のするのは、古色蒼然とした外見のトマス・アクィナスの本(おそらく『神学大全』)と、同じように古めかしい外函に入った西田幾多郎の本(タイトルに「無」とあったようですが、違う本かもしれません)。それから背表紙に「親鸞」と書かれた本。これで全部です。
そのころ私は三木清の『人生論ノート』を愛読していた関係で、西田幾多郎を知り、試みに『善の研究』を読んで、はあ、ほお、はあ……、と思っていた時期でしたので、教授の本棚に「西田幾多郎」と書かれた本がささっているのを見て、「あっ、西田幾多郎だ!」と嬉しくなったのを覚えています。
けれどもそれをきっかけに西田に本腰を入れるわけでもなく、むしろじぶんの中でそういう炎の燃えつきた感があり、まあもういいか、どうでも……、そもそも私の手に負えるようなものはすでに真理とはいえないのだろうし……、と白け出していきました。
そうしていつの間にか十年ほど経った現在、私は時折、『西田幾多郎哲学論集』(岩波文庫)にお世話になっています。
というのは、どうにも頭の中がもつれて無闇に興奮しきって眠れない夜、この本の一文一文を噛みしめるように内容を整理しながらつまずいた文章にはおのれの腹に落ちるまで何度も何度も読み返してゆけば、「少々お待ちください。非常におもしろく、大変胸をうつお話ではございますが、恥ずかしながら無知で愚鈍な頭ゆえ、目が白黒してきたようです。いちど永遠の今の自己限定における眠りの場へと持ち帰らせていただき、そちらで再考させていただきたく存じます。本日も貴重なお話、誠にありがとうございました!」となって、すやすやと寝入ることができるからです。
何かと慌ただしい生活において、読書はどうしても限られたものになります。善い本は時の中に屹立するものだから急ぐことはないとは思うものの、うかうかしていると、べつに本なんてどうでも……、そもそも本を読んで何かを得ようという気持ちがさもしいのであって……、などとじぶんが言い出さないとも限りません。
ですからおのれに縁のある本は、情熱のあるうちにさっさと読むべきなのでしょう。このたび思い出したアクィナスと親鸞も、取り組みたいという意志はあるのですが、煩瑣(はんさ)な日常に追われて、やる気がでません。けれどもほんとうに縁があるのなら、おのずとそのときは来るだろうとも思うのです。
