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思い出の本棚と、あの1冊。〈BOOKNERD〉店主・早坂大輔

幼き日に読書の扉を開いてくれた家族の蔵書に、憧れの書店や旅先で偶然出くわした書棚まで。今の自分を形作った、忘れることのできない本棚の記憶と、 そこに並んでいたある1冊について、〈BOOKNERD〉店主・早坂大輔がエッセイをしたためた。

illustration: Akiko Maegawa / edit: Emi Fukushima

若き日に、憧れの書店で手を伸ばしたもの

中目黒駅を西口から出てすぐ、雑居ビルの急な階段を上ると、大判の本が棚に無数に差し込まれた雑然とした店内がガラス窓から見えてくる。縦に長い店内にはすでに客が数人いて、押し合いへし合いしながら棚や床に積まれた写真集やアートブックを1冊ずつ見ている。

2000年代初頭。故郷の地方都市でアルバイトをしながら燻(くすぶ)っていた20代のぼくにとって、中目黒〈アートバード・ブックス〉はまさに聖地のひとつだった。当時は雑誌で写真集特集が組まれるくらい、古書の写真集やアートブックがよく売れていた時代で、『スタジオ・ボイス』や『リラックス』を読みふけっていたぼくも例に漏れずそうした雑誌の薫陶を受け、上京すると必ず古書店回りをした。

神保町〈ブックブラザー源喜堂〉〈小宮山書店〉、中目黒〈COW BOOKS〉、外苑前〈Shelf〉。数ある古書店の中で〈アートバード・ブックス〉は仲間内で安くて良質な本が買えると評判だった。

ロバート・フランクの『THE LINES OF MY HAND』にアンリ・カルティエ=ブレッソンの『Europeans』、それにたくさんの知られざるフォトグラファーやアーティストたちの、時代に埋もれてしまった1冊。あの店の本棚で学んだことはたくさんあった。

そんなたくさんの写真集やアートブックの中で、その頃のぼくがいちばん欲しかったのはウィリアム・クラインの『NEW YORK』や『PARIS+KLEIN』だったが、アルバイトを掛け持ちしている実家暮らしの人間にとって、とても手が出せる値段ではなかったし、さすがにそのクラスの写真集は容易に眺めることができなかったはずだ。

バイト代を貯めて上京した冬のある日。中目黒駅を降りて、ビルのあの急な階段を上り、カニ歩きをしながら本棚を漁(あさ)っていると、見覚えのある表紙を抜き出した。間違いない、それはウィリアム・クラインの『MISTER FREEDOM』という、彼が監督したコメディ映画のヴィジュアルブックで、過激でエロティックな出版物を手がけたことで知られる、フランスの編集者エリック・ロスフェルドの出版社から1970年に刊行されたものだ。

『NEW YORK』や『PARIS+KLEIN』は無理でも、これなら買って帰れるかもしれない。値段を見ると少し背伸びをすれば買える価格だった。しばらく他の写真集をパラパラやりながら店内で逡巡(しゅんじゅん)していると、ぼくの後に入ってきた客が何冊かまとめて本を抜き出し、会計をして出ていった。

しばらく悩みに悩んで、ようやく『MISTER FREEDOM』をレジに持っていこうと本棚に戻ると、件(くだん)の本が見つからない。まさかさっきの客が買ってしまったのだろうか。何度も本棚をあたったが、結局その日は見つからず、ガックリとうなだれて帰路に就いた。

その後何度か上京し、〈アートバード・ブックス〉に行ったが、ウィリアム・クラインのあの本は見つからず、そうこうしているうちに写真集ブームは終焉を迎え、中目黒の店は実店舗を閉めてしまった。

それから時はながれ、『MISTER FREEDOM』に再会したのはニューヨークの古書店のレアブックが並ぶ本棚だった。あれから10年以上の時間が過ぎていて、ぼくは本屋を始めようとしていた。

前川明子 イラスト
2009年、中目黒駅前を含む山手通り道路拡張による立ち退きを理由に、〈アートバード・ブックス〉は惜しまれつつ実店舗を閉店した。