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禅とZENとマインドフルネス、その境界線とは。川上全龍(僧侶)×石川善樹(予防医学研究者)

禅寺の副住職にしてマインドフルネスコーチでもある川上全龍氏。マインドフルネスを実践する医学博士、石川善樹氏。2人はマインドフルネスを通じて出会ってまだ2年だが、すでに商品開発や著作など多くの協同作業を行ってきた。

Photo: Kunihiro Fukumori, Akiko Mizuno / Text: Kaz Yuzawa

石川善樹

僕の中の川上さんの第一印象は「科学のわかるお坊さん」。お坊さんでも科学の話ができるヒトがいるんだって感じでした。
科学という共通言語があったおかげで、いろいろな話で盛り上がって。気がつけば、はや2年って感じですね。

川上全龍

その間にいろいろやりましたね。

石川

僕はご縁があった人と一緒に面白いことをするという研究スタイルなもので(笑)。
川上さんとはいろいろ愉しいことをやってます。

川上

僕も愉しませてもらっていますよ。でもこの「愉しい」って大切ですよね。

マインドフルネスについての
基礎的な解説から。

石川

初めて川上さんに会った頃、正直、僕はマインドフルネスのことをよくわかっていなかったんです。僕は曹洞宗の中学に通っていたので、その頃から坐禅はやらされていたんですが、言われるから坐るような感じで、当時は坐禅のこともやっぱりよくわかっていなかった。

川上

僕の方も、禅僧ですからやってはいたんですけれど、なぜとか何がどうなっているのかをわかりたいという個人的な興味というか、願望があったんです。
石川さんと知り合って話をしていると、石川さんはさまざまな角度から切り込んでくるので、それに刺激されてこちらにも新たな気づきが生まれました。

石川

僕はもともと、ダイエットの研究をするところから科学者としての人生が始まっているんですが、ダイエットはマインドフルネスがないと成功しないということが知られていて、そこでマインドフルネスに興味を持ったんです。
当時はまだ日本では、マインドフルネスという言葉自体、知られていなかった頃。

川上

日本では去年の半ばくらいにやっとマインドフルネスという言葉を知っている人が過半数になったかなって感じですからね。一方海外では、この5年間くらいですごい変化があったわけです。

僕は2006年から外国の方を中心に坐禅を教えているんですが、最初の頃は「マインドフルネスとは」というところから始めなくてはいけなかった。でも今は、説明する必要がまったくありませんからね。それを考えると、やはり日本は出遅れている感じです。

石川

川上さんはいつ頃、マインドフルネスと出会ったんですか?

川上

マインドフルネスという言葉自体はこの10年くらいのことだと思うけれど、2000年前後くらいから瞑想というような形では、海外の心理学の雑誌に載っている研究記事などで情報を得ていました。

石川

昔は瞑想やメディテーションと言ってたんですよね。

川上

日本では今でもメディテーションって書いている人は多いですよ。マインドフルネスのコンセプト自体は、仏教の経典に書かれているくらい古いものですし。

石川

なるほど。

川上

で、僕自身はその後、日本に帰国して海外の人向けに坐禅を教えるようになって、それまでの禅寺のような「はい、坐ってください、姿勢を調えてください」というようなやり方では通用しないというか、もう少し理論的に話をしないと彼らには伝わらないという印象を受けたんです。

それでいろいろ調べていったときに、アメリカで「マインドフルネス」という言葉が生まれていることを知ったわけです。

石川

マインドフルネスという言葉を作って広めた人は誰ですか?

川上

言葉を作ったのはジョン・カバット・ジンですね。それは1970年代後半のことですが、それをブランディングして、市民権を得るまでにしたのはチャディー・メン・タンであり、グーグルですよ。

マインドフルネスを商品化したのはグーグルだというのが、僕の見解です。

石川

ああそうか。チャディー・メン・タンというのはグーグルのエンジニアだった人ですが、マインドフルネス活動を始めて10年で、ノーベル平和賞候補にノミネートされた男ですからね。それに今や〈Search Inside Yourself Leadership Institute〉の会長だし。

川上

そう。最近彼のことをグールーと呼んでいる人がいるのがちょっと気になりますけれど。
それはさておき、この対談のテーマでもある禅とマインドフルネスの違いについては、僕はタイミングや時代の違いだけじゃないかと思うんですよ。それぞれを仏教の一部としてみれば、マインドフルネスは「21世紀版の西洋で進化した仏教」だと考えればいいんじゃないかと。

石川

ああなるほどね。

川上

仏教はインドで生まれて、中国、韓国、日本、それから東南アジアにも広まって、地域で独自の進化を遂げたわけじゃないですか。そして仏教が正式に西洋に伝わったのは、1893年のシカゴ万博だといわれています。

20世紀になると、西洋哲学の中で東洋神秘主義のようなものとして、仏教に興味を持ちだすわけです。例えば社会学者のマックス・ウェーバーが『ヒンドゥー教と仏教』を書いたりしています。

その流れの先に、1950年代のビートジェネレーションや70年代のヒッピー世代がいて、その頃に日本から鈴木大拙さんたちがヨーロッパやアメリカに行って仏教を広めてきた。そこから西欧、特にアメリカにおいて仏教は独自の進化を遂げてきたと思うんです。

アメリカの合理主義や実践主義にもまれて、今のアメリカ人に受け入れられる形に変わってきたと考えることができます。

予防医学研究者・石川善樹
予防医学研究者・石川善樹
僧侶・川上全龍
僧侶・川上全龍

誰に伝えるかによって、
語る内容は変わってくる。

川上

よく仏教とマインドフルネスを分けて考える人がいるんですが、僕はその必要はないと思っています。かつて仏教がアジアで地域ごとに独自の進化を遂げたように、20世紀になってアメリカで独自の進化を遂げたものだと考えているんです。

では何が違いを生んだのかというと、それはオーディエンスの違いなんじゃないか。誰に話すのかがとても大きな問題になってくる。

クレアモント大学院大学のドラッカースクールのジェレミー・ハンター教授は、マインドフルネスを始めた段階で、まず話す相手というのは、白人の中年のプロテスタントであると。
つまりアメリカのエグゼクティブクラスです。そういう人に、コレは仏教ですと言っても、受け入れてくれるはずがないと。

そこで、宗教的だったり神秘的だったりする部分を除いていって、概念や考え方、技術的な部分だけを抽出し、さらにアメリカ文化の多様性に馴染むように進化したもの、それがマインドフルネスだと言っています。

石川

その考え方はとてもよくわかります。僕なりの言い方をすれば、「WHO」が違うということですね。「HOW」は、禅もマインドフルネスも、多分キリスト教もイスラム教も、ほとんど変わらないと思うんです。どのようにするかは変わらない。
でも「WHO」が違うから、「WHAT」が変わってくる。伝える相手が変わることによって、伝えることが変わるわけです。

川上

僕もマインドフルネスの講演などで話すとき、それが新入社員のための研修なのか、中間管理職のための講習なのか、もしくはエグゼクティブに話すのかで、内容は当然変えますからね。

石川

ところで、禅とは何かという定義は、あまりしっかりしていないと思うんですが、どうですか?

川上

ええ、定義はないですよ。宗教はそこを曖昧にしたがるから。

石川

でも、マインドフルネスにはジョン・カバット・ジンが作った定義がある。

川上

そうですね。「分別なく今この瞬間を経験する」というのがマインドフルネスの定義。これは上座部仏教というか、テーラヴァーダ仏教のコンセプトから出ています。

石川

研究者として発言させてもらうと、僕はカリスマがいる業界はアヤシいと思っているんです。禅や東洋医療はカリスマが登場しやすいんです。それはなぜかというと、定義が曖昧で、手法が標準化されていないからだと僕は思うんです。

川上

うんうん。

石川

「あの先生の作った薬はすごい」なんてことは、西洋医療では起こり得ないんです。レシピ通りに調合すれば、まったく同じものになるわけですから。
その点で科学のフレーバーがかかっているマインドフルネスは、定義をしっかり作り、手法を標準化している。だから効果も検証しやすくなっている。

川上

僕は今度、fMRIで脳波を検査しようと思っているんですよ。僕は本当にマインドフルな状態になっているのか、瞑想ができているのかを、脳科学的にチェックしてみようと思って。

石川

そういう姿勢は大切ですね。

川上

僕は正直なところ、ちまたに溢れてきているマインドフルネスコーチが果たして全員、ちゃんと瞑想をできているのかがちょっと疑問なんです。そのあたりの基準整備は急ぐ必要があると思いますね。

石川

ベースメソッドの確立ですね。科学が科学たり得たのは、ニュートンが数学というベースメソッドを作ってからです。西洋医学は治療の標準化をしたからだし、化学にとってのベースメソッドは周期表。

つまり、多様性が生まれるための基礎となるのがベースメソッド。それを整理することは急ぐべきでしょう。
そのためにはまず、質のいいデータの集積をしなければなりません。それがマインドフルネスが科学の側にとどまるための、大切な要素だと思います。

川上

今のマインドフルネスは「ピップエレキバン」っぽいから(笑)。

進化するマインドフルネス。

石川

マインドフルネスというのはかなり理性を高めてくれるものだと思うんですが、禅の場合はどうなんでしょう?

川上

禅にも同じようにありますよ。禅には「無分別」という言葉があるんですが、分別は誰がしているかといえば自分、個ですね。そして個のバイアスです。それをなくせば「無我」になるわけで、そのあたりは禅でもマインドフルネスでも一緒です。

石川

なるほど。

川上

違いがあるとすれば、マインドフルネスは入口を理論的にして誰でも入りやすくしている。禅は入口を曖昧にしておいて、でも先には崇高なものがあるんだから、そこを目指して修行せよ、という構造。ですからマインドフルネスは親切なんですよ。

「ストレスを下げましょう→集中力上げましょう→気づきも向上します→自己認知がよくなります→共感力が上がります→利他の精神が生まれます→幸せに繋がります」。とてもわかりやすい。

石川

ステップバイステップ、ちょっと学習参考書みたいですけどね。禅は弓道、マインドフルネスはアーチェリーなんですよ。弓道の場合はとにかく射よと。先生の真似をして射よと。
一方、アーチェリーはステップバイステップで教えてくれる。ある意味、文化の違いとも時代の違いともいえますね。

川上

ところで、日本の坊さんにはマインドフルネスを批判する人が多いんですよ。彼らは「利己的だ」とか「目的があってはいかん」とか言うけれど、あなた方が坐禅してるのは、悟りを得るためでしょ。それは目的じゃないの、ということです。

石川

アハハ、その通りです。

川上

あともう一つ、「お金儲けのため」という批判もあるけれど、僕はそれは偽善者的な発言だと思うんですよ。残念ながら人間はお金に頼らない生き方を発見できていない。
つまり、お寺の経営だってお金が必要なわけですよ。寄付を募るのはよくて、自分たちでお金を稼ぐのはよくないって、おかしいでしょ。

やりすぎちゃうのは問題かもしれないけれど、寄付に頼らず自分たちのできることで稼ぐ方がむしろ真っ当なんじゃないかとさえ、僕は思います。

石川

批判の矛先が違ってますね。

川上

そう。その最たる例は、マインドフルネスしながらセラピーしているのはよくないという批判。でもマインドフルネスというのは、もともとセラピーの一環として発展したものなんですよ。
抗鬱剤などと並行して行うことで効果が出るとわかっているから、マインドフルネスを採り入れているんです。そういう文脈の勘違いがすごく多い。

もっと言ってしまえば、本来、仏教徒というのはバイアスを外してものを見るようにトレーニングしている人のはずなんだけれど、マインドフルネスに対する見方には間違いなくバイアスがかかっている。

石川

手厳しいなぁ。

川上

かつて、日本で独自の進化を遂げた仏教のことを、中国のお坊さんがとやかく言ったことはありますか?そういうことです。
ただ僕は、これも思考の進化の過程の一つだと思うことにしています。

石川

たしかに。進化とは多様性が生まれることですからね。その瞬間には軋轢も生まれるでしょう。

川上

まあね。ただ僕が思うに、マインドフルネスに注目が集まることは、禅にとってもプラスだと思うんですよ。入口こそ違え、より多くの人が興味を持ってくれているんだから、このチャンスに一人でも多くの人に禅の魅力を伝えるようにすべきじゃないかと思うんですけどね。

予防医学研究者・石川善樹、僧侶・川上全龍
(左)予防医学研究者・石川善樹、(右)僧侶・川上全龍

マインドフルネスの実践で、
変わったこと。

石川

僕がマインドフルネスと出会って勉強してきた過程は、シンプルに科学的なところだけを追いかけてきた形です。

要は新しいメンタルトレーニングという認識ですね。フロイトから始まったトラウマをやっつけろという考え方が心理学にはありましたが、そうはいってもトラウマはそう簡単に克服できるものではないと。

じゃあとりあえず行動せよみたいな話になって、その次に出てきたのは考え方を変えようということで認知行動療法というもの。それもなかなか効果を得られずにいたところに、新たなメンタルトレーニングとして登場したのがマインドフルネスなんです。

つまり、これまでトラウマ→行動→考え方と次第に大本へと対象が遡ってきたわけですが、マインドフルネスは注意のトレーニングなんです。

川上

それは言えますね。

石川

例えば街を歩いていて、幸せそうなカップルと独りで寂しそうな人がいたとする。そのときにどっちに注意を向けるかが、実は重要であると。いったん脳に入ってしまった情報を変えようとすると解釈し直す、つまり考え方を変える必要があるんだけれど、それは非常に難しい。

それなら入ってくる情報自体を変えてしまおうというのが、マインドフルネスだと思うんです。インプット→プロセス→アウトプットという過程を考えたときに、インプットが情報、プロセスが思考、アウトプットが行動なわけですが、その大本のインプットから変えてしまおうということです。

情報が変わればその先はすべて変わっていきますから。これまで、僕を含めて多くの人が「自分は何をインプットしているのか」ということに対して無自覚だったんです。

では、どうすればインプットを変えられるのか、どこに注意を向ければいいか。それは「今でしょ」なわけですよ(笑)。

川上

アハハハ、なるほど。

石川

今の自分の呼吸に注意を向けていれば、幸せそうなカップルも寂しそうなシングルも目に入ってこない。そうすれば、外からの情報に乱されずに、とりあえず自分の精神状態は安定するということ。

そして、悲しいとか悔しいとか、ネガティブ感情が出たときには、ネガティブ感情を抱いている自分に注意を向けようというわけです。「ああ、自分は今怒ってるなあ」とか「悲しんでるなあ」とか、引いたところから自分の感情に注意を当ててみようという考え方です。

川上

基本的にはそうですね。

石川

ええ。実は僕はそのくらいの理解で、グーグルの「SIY」研修に参加したんです。ですから「客観視すればいいのね」とか「呼吸に注意を向ければいいのか」とか、理屈としてはわかっていた。でも、知っていることと実際にやることはまったく違っていました。

研修プログラムに通い始めてから実生活でもやってみたんですが、そうしたらホントにいろいろなことに気づくようになったんです。それまで無意識にやっていたことの、裏側に隠されていた自分の欲望がすごくよく見えるようになった。

例えば自己紹介をするとき、自分はどういう欲望を持っているのかとかね。自己紹介がうまくできないと、イラッとしたりするじゃないですか。
でもちょっと待てよと。自分は何に対してこんなにイライラしているんだろうと。それを検証していくと、「自分のことをわかってもらいたい」という欲望があったことが明らかになってくる。

じゃあ、自己紹介というのは自分をわかってもらうことがゴールなのかと。自己紹介の本来の目的って何だったのだろうと考えるわけです。
自己紹介の段階で自分のことを完璧に理解してもらえればいいのかと。むしろ知ってもらわない方が面白いと思われるかもしれないとか、いろんな発想が出てくる。

それまで考えたことがなかったんですが、そういうことが気になるようになった。これは非常に興味深かった。

川上

気づきは気づきを呼びますからね。

石川

僕はイラッとしたとき、逆にうれしかったりしたとき、感情が極端に振れたときに、ハッと何かに気づくようになった。その瞬間に立ち止まれるようになったんです。

川上

気づきのトレーニング。

石川

そうなんですよ。それまでいかに僕は気づいていなかったか、注意が今に向いていなかったかを思い知らされました。そういうことをやっていくうちに、生活がすごく愉しくなってきたんです。

これが、僕がマインドフルネスをやってみてよかったこと。そこには宗教性とか一切入っていないんです。だから禅とかいうところには、僕は全然到達していない(笑)。

川上

いや、石川さんの認識の中ではそういうことなんでしょうけれど、それって仏教的な概念の、修行だったり悟りだったりというものの中にあるものなんですよ。

例えば客観的に引いて見るというのは、仏教で言うと一如・真如の考え方だったり、ワンネスの考え方に通じます。つまり感情というものは、自分が個であるところから生じるものじゃないですか。

でも一歩引いて見てみると、実際に何が起こっているかに気づく。それは仏教的な概念だし、お釈迦様の手のひらの上にいることに変わりはないんです。

石川

なるほど、孫悟空だ(笑)。たしかに、川上さんのおっしゃることもよくわかります。僕もマインドフルネスと禅はあるストーリーの中で語られる方がわかりやすいと思いますし。

ただ、「今でしょ」は疲れるんですよ。一年中、マインドフルな状態でなんていられませんからね。普段はマインドレスでいいんです。でも、気づきが始まっちゃうと、次から次へと出てきてしまいます。

僕はマインドフルネスを実践するようになってから、ややこしい人間になったなと思ってます。おかげで生きるのが面倒くさいですよ(笑)。

川上

わかります、理屈っぽくなりますよね。僕も最近、気づきについて考えてしまって、妻に「何ボーッとしてるの!」って叱られることが多くなっちゃって(笑)。
頭の中は、大忙しなんですけどね。

石川

じゃあ結論は、マインドフルネスは疲れるものである、で(笑)。