Eat

Eat

食べる

脳科学者・中野信子の「私の食堂、私の一皿」。〈洋食キムラ〉のハンバーグステーキ

洋食には「おいしい」や「好き」だけではない思い出や物語があります。あの人は、どんなメニューが好きなんだろう。洋食を愛する脳科学者・中野信子さんにお気に入りの食堂と一皿を綴ってもらいました。特別な一皿をどうぞ。

photo: Satoko Imazu / illustration: Masaki Takahashi / text: Asuka Ochi

連載一覧へ

神奈川・横浜〈洋食キムラ〉のハンバーグステーキ

寄稿・中野信子

結婚して初めて住んだ横浜にあって、夫の誕生日に一緒に出かけた〈洋食キムラ〉。地元の人に愛される名店は、自分にとって思い出深く、温かい記憶と結びついています。いろいろ食べたいタイプの私が、気がつくとまた選んでしまうのはハンバーグステーキ。シェル形の鉄板に入ったハンバーグがテーブルに運ばれてくると、自然と心が温まるような気持ちになるんですよね。

そして口に運べば、さっぱりとしていて濃すぎず、子供時代を思い出すような優しさがあって。きっと誰もが好きでおいしいと感じられる味なのではないかと思います。〈キムラ〉のメニューはオムレツもシチューも、デザートのカタラーナまですべて、際立って尖っているようなところがなくてバランスが取れている。

誕生日にわざわざ高級な店を予約して出かけるよりも、家族との思い出の場所でほっとするような時間を過ごすのは、自分にとって何よりも贅沢なこと。洋食って、気軽に食べられる家庭的な味だからこそ、大切な日に食べたいんですよね。

では、いったい洋食の何が特別なのか。高級なフレンチや和食、みんなでワイワイ食卓を囲むのが楽しい中華などの料理とも少し違うのは、パーソナルな思い出と結びつきやすいところだと思います。

なかでも、子供時代に食べるお肉メニューの代表格といえるハンバーグには、ベーシックな家庭の味を思い出しやすい“思考のカギ”のようなものがあるように感じます。いざ目の前にすると、たとえ過去に自分が経験していなくても、なんだか懐かしい気がしてしまう。それが洋食の一番の魅力であり、良さなんですよね。

脳科学的な側面から見ると、誰からも愛されるイメージのある洋食の、好き/嫌いという感覚は、実は意外と難しいんです。私たちの脳では、前頭葉の中の複数の箇所が記憶を参照しながら好みを決めています。最初に眼窩前頭皮質という領域が、「これが好き」と、本当に主観的な好みを決める。

次に、眼窩前頭皮質の少し後ろにある内側前頭前野が、「それを好きであることがカッコいいことか、そうでないか」を判断します。例えば、この味をおいしいと言った時、一緒に行った人にバカにされないかなとか、こんなにわかりやすい味を好きだと言ったら、自分が軽んじられるんじゃないかとか。その逆もあって、こういう難しい味をおいしいと言えば、ツウだと思ってもらえるんじゃないかとか。

こうした主観と客観との綱引きの過程で、洋食の場合は、主観的に好きというところが強いと思うんですよね。その強さというのは、触れている回数が多いかどうかというファミリアリティの高さで決まる。〈キムラ〉の味も、どこかで食べたことがある気がするな、あの味に近いものをいつか私は味わったな、という感覚を思い起こさせてくれる。

それは、これは危ないものではないという安心感や、信頼できる人が提供してくれたというような記憶と結びついている。記憶のあり方は人それぞれですが、触れてきた回数がより多くて食べ慣れている味、よくある味というのが私たちは好きなものなんですね。

ほかにもう一つ、好き嫌いを決めるのに、社会一般の評価というのがあります。私たちは、いわゆるお店の格付けサイトなどで得る情報を参照して、味の好みをチューニングしている。自分ではそうでもないと思っても、評価が高いとおいしく感じたり、その逆もありますよね。脳には、好みを情報によって修飾する領域があって、日本人は比較的、修飾されやすいと考えられています。

メディアで紹介されると、もともとおいしい店を、よりおいしく格調高く感じる人もいるかもしれません。いろいろな情報が海馬から引っ張り出されて、主観的な好みを決める領域に返される。好き嫌いは、こうした脳のやりとりで決められているのです。

慣れ親しんだ“あの味”、洋食のノスタルジアに人は癒やされている

また、洋食において面白いなと思うのは、皆が好むわかりやすい味とノスタルジアとの関係です。例えば、昭和を経験していない子が、昭和風の町並みに懐かしいなんて言ったりする。洋食もそうで、存在しない記憶が懐かしいということって、結構あります。ノスタルジアというのは単なる感傷と思われがちですが、実はとてもユニークな感情で、それは寂しいとか辛いとか疲れたとか、ネガティブな気持ちの時に起きやすい。

そして、ノスタルジアが起こると、感情としてはポジティブになる。要するに、ノスタルジアは自分を癒やす機構というふうに捉えることができます。嫌な気持ちは生きていくうえで大事なものでもありますが、あまりに起こりすぎると私たちは耐えられないので、自分で自分を癒やそうとする。

その記憶を呼び覚ますトリガーとして、総合的に五感が刺激される食べ物は、とても使い勝手がいい。ナイフとフォークの音、グツグツしておいしそうな見た目、過去に自分がそれを味わいたかったなという記憶まで勝手に作り出したりする。こういう味というのがわかりやすい洋食は、自分の記憶を合成しやすくて便利なんですね。

さらに、肉を食べると攻撃的になるというイメージがありますが、実はそうでなくて安心するというデータもあります。何となく癒やされたり、疲れた心に効く、洋食には、そんな効果もあるんじゃないかなと思います。(談)

高橋将貴 イラスト

連載一覧へ