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“船系”に“ホテル系”?歴史ある港町、神戸の洋食物語

リゾート地・熱海でエビのコキュールやナポリタンを、京都の花街で芸妓さんのために作られたオムライスを、そして港町・神戸では、オーセンティックなデミグラスの濃淡を。3つの町で花開いた洋食文化を伝える、名店を巡る旅に出かけよう。この記事では、神戸の洋食店をご紹介。

photo: Noriko Yoshimura / text: Hiroki Koh

文・江弘毅

「コーヒーも映画もはじめは港からやってきた」。2017年の神戸開港150年のPRコピーだ。洋食もそれらと同様に新しい外国文化のひとつであり、神戸には明治からの様式と系譜が確かに残っている。

幕末から明治の文明開化時代、日本で主流の高級な西洋料理といえば、フランス料理である。この時代のフランス料理は歴史的な大著『料理の手引き(Le Guide Culinaire)』を書いたオーギュスト・エスコフィエが体系づけ、世界の料理を牽引した。

日本の洋食といえばデミグラスソースだ。『料理の手引き』には仏料理の5つの基本ソースのひとつであるソース・エスパニョールからさらに不純物を取り除いたもの、と記されている。ソース・エスパニョールを半分(ドゥミ=demi)に煮詰めて(グラス=glace)濾(こ)したものであるから手がかかる。本国ではソースに軽さを求めた70年代以降のヌーベル・キュイジーヌの流れで、重厚なデミグラスは廃れたという見方がある。

完成度が高すぎて、料理の味が決定されてしまうこともその理由の一つだそうだ。が、神戸にはこのデミグラスソースが、毎日継ぎ足しする鰻(うなぎ)のタレのように存在している。

ひとつは船舶のギャレー(厨房)出身者のレストラン。飛行機以前の外国航路の時代、世界に君臨していた日本郵船や大阪商船の食堂は、コックにとって最高ランクの仕事場だった。その料理人が「陸に揚がって始めた店」。この系譜が現存する。

もうひとつは外国人客が泊まるホテルのレストラン。とりわけ神戸では、いち早く外国人居留地に創業されたオリエンタルホテルの流れが受け継がれている。

さらに、長崎のオランダ人に学んだ店、チェーン店を抱え名コックを輩出する「第三の系譜」も誕生。伝統を守りながら、チューニングを続ける神戸洋食の現在地を探る。

伝統の“船料理”を再現する令和のコックたち

まずは船の系譜から。神戸における最新の洋食ニュースは、何といっても2022年春に大東文彦さんがトアロードに開店した〈グリルDAITO〉だ。

彼の祖父は、1933年外国航路で「太平洋の女王」と称された日本郵船の浅間丸から陸に揚がった大東八郎氏。前年に創業した家業のレストランで谷崎潤一郎が命名した〈ハイウエイ〉に入った。それは豪華船の食事を供し、戦前〜戦後を通じて神戸で最も有名なレストランだった。

〈ハイウエイ〉は阪神・淡路大震災のあと閉店したが、八郎氏の次男の二郎さんが自身の店〈ビストロ・ジロー〉(84年創業)でその料理を引き継いできた。

彼の甥にあたる文彦さんは〈グリルDAITO〉を開店するにあたって、〈ハイウエイ〉の洋食を直接知ることはなかったが、叔父の料理をリスペクトし、“家の味”を残そうと決意したという。メニューに並ぶ一品が「カニクリームコロッケ浅間丸風」。船上の環境に配慮して油で揚げずオーブンで作るコロッケの上には、日本郵船伝統の爽やかなトマトソースがかかる。

〈グリルDAITO〉

浅間丸の料理=大東家の味を孫が受け継いで開店

神戸に現存する洋食店で、おそらく最も歴史があるのは、〈伊藤グリル〉。創業は大正12(1923)年で、今年100周年を迎える。初代・伊藤寛氏は日本郵船の欧州航路のコックとして腕をふるい、英国の名門・サヴォイホテルへの料理留学も経験したエリート。現在は孫の享治さんが4代目店主を務める。

この店は西洋料理店としていち早く炭火焼きステーキを出したことでも知られる。今でこそ「神戸ビーフ」が世界的に知られ、「神戸のステーキハウス」が前景化しているが、〈伊藤グリル〉の功績は大きい。

伊藤享治さんは80年代に渡仏し、現代的なフランス料理を持って帰った。二枚看板のシチューのソースは享治さんが洗練させたもので、これ以上ない完成度だ。炭火焼きステーキといい、新たなソースといい、神戸に洋食の前衛があるとするならば、超老舗のこの店の姿勢だろう。

〈伊藤グリル〉

創業100年を迎える老舗の炭火焼きステーキ

船舶の料理を最も色濃く受け継いでいるのは、〈グリルミヤコ〉だろう。創始者の宮前敬治氏は、敗戦後GHQの管理下にあった飯野海運のコックで、1965年、陸に揚がって洋食店を開いた。現在は2代目で息子の宮前昌尚さんが姉の香里さんとコンビで後を継いでいる。

ここのテールシチューは大阪商船南米航路のぶらじる丸のフォン・ド・ヴォー(仔牛から取った出汁)の直系だという物語がある。ぶらじる丸の名料理長だった石井弘氏は戦後すぐ、飯野海運にスカウトされ、宮前さんはその下で働いていたのだ。外国航路のコックたちの社会には、ソースやブイヨンをパスしていく伝統があり、〈グリルミヤコ〉も今に至るまで受け継いでいる。この文化が、今のミナト神戸の洋食を育んでいると言うほかない。

〈グリルミヤコ〉

船舶時代から継ぎ足すデミグラスが光る

洋食文化を醸成させた、旧オリエンタルホテル

さて、オリエンタルホテルの系譜へ。明治3(1870)年、外国人居留地にすでにオリエンタルホテルが開業していたことは古い英字新聞の広告によって確認されている。

イギリス人のノーベル賞作家、ラドヤード・キプリングが、日本に滞在した1889年、旅行記でオリエンタルホテルの料理について、「べグーさん、私はあなたのポテトサラダ、あなたのビーフステーキ(略)をほめたたえる記事を書きますよ。いや、詩を書こう」と絶賛している(『キプリングの日本発見』より)。

ベグーとは「日本のフランス料理の父」と称されるフランス人ルイ・ベギューのことで、築地ホテル館、横浜グランドホテルの初代料理長を経て、1887年に神戸に来てオリエンタルホテルの社主となった人物だ。キプリングが食べたオリエンタルの料理は、まさに洋食。神奈川県立歴史博物館には「L・ベギュー/マネージャー」と記されたメニューが所蔵。1897年11月10日のもので、そこには舌ビラメのムニエル、羊の煮込み、ビーフステーキ、最後に仔牛肉のカレーと記されている。

神戸では1980年頃から「旧オリエンタルホテルのカレー」を謳う洋食店が数軒あって、家庭のカレーやカレー店のそれとは違った、ハイグレードなカレーライスを出していた。よく言われる英国由来でも大日本帝国海軍風のカレーでもない「ダブルオニオン」と称される、ブイヨンにソテーオニオンとフライドオニオンを大量に入れて煮込んだレシピのもの。百数十年前の明治中期のこのホテルで供されていたフランス料理が直に伝承されたものだった。

当時、日本ではまだ新しい西洋野菜であったタマネギは、後の大阪府になる堺県の農業技師が居留地の外国商館から持ち帰り、泉南地方で栽培することに成功。神戸港からオーストラリアに輸出されていた。

旧オリエンタルホテルのデミグラスソースは、スープ状のシチューに仕上げられるものではなく、あくまでもソースであり、何日間も手間暇かけて仕上げられる贅沢なものだ。

西元町で「旧オリエンタルホテル出身のシェフ達が作る神戸伝統の洋食カレーとビーフシチューの店」を謳う〈Sion〉は、2013年にオープンした店。ホテルの味を忠実に再現するため、細部にまでこだわり抜き、コロナ禍までは元料理長やシェフたちが交代で腕をふるっていた。

〈Sion〉

実直に再現された、正統派の洋食カレー

同じ系譜にあり、大丸神戸店のすぐ近くの〈L'Ami〉は、行列で知られる「神戸洋食とワインの店」。オーナーシェフの土井平八さんは、60〜70年代に旧オリエンタルの厨房にいた人で、シチューもカレーもレシピを受け継いでいるとのこと。だが、たとえばデミグラスソースにしてもそのまま再現すると、上質な食材と手間とでとてつもなく値が高くついてしまう。どう簡略化するかが課題で、旧オリエンタルの料理は、なかなかシェフの頭を悩ませるとのこと。

〈L'Ami〉

現代風にアレンジされた旧オリエンタルの味が列を作る

神戸洋食を拡張する“第三の系譜”

そして今、神戸の洋食といえば〈グリル一平〉の系譜の店が人気を博している。1952年創業、レトロで雑多な下町・新開地に本店を構えるが、三宮と元町、昨年末には西宮店も開店させた。なかでも千崎智平さんが98年に独立して開店した〈グリル末松〉はずば抜けた人気ぶりだ。

有名イタリア料理店の料理人だった千崎さんは、〈グリル一平〉で食べたオムライスの技術とデミグラスソースの完成度に魅了されて、即入店。独立後は具を変えるなど、さまざまなアレンジを加え人気店に。

〈グリル末松〉

グリル一平〉ゆずりの苦味が効いたデミグラス

また一風変わった系譜を持つのは、1933年創業の〈グリル十字屋〉。初代が外国人の保養地だった長崎の雲仙のホテルで、オランダ人シェフからの手ほどきを受けた洋食であり、開店当初は見事に外国人客のみだった。

メニューにはスープとカレー以外すべてデミグラスソースの料理が並ぶ。3代目店主も誇るそのソースは、かつて外国人の生活の場所だった旧居留地にふさわしい味だ。

〈グリル十字屋〉

歴史を感じる店舗空間で90年来のソースを堪能