別荘族、逗留客に育まれ、磨かれたリゾート地の洋食
東京から東海道新幹線で1時間弱で行ける温泉地、熱海。実はこの地と洋食の関係は古くて深い。
温泉の開湯は奈良時代にまで遡り、日本三大古泉の一つにも数えられる名湯地。江戸幕府初代将軍・徳川家康を筆頭に、歴史的な人物が湯治場として愛し、多くの療養客が足を延ばしたという。
幕末の開港以降は、外国人居留地に滞在していた外国人にとってのリゾート地としても機能。明治18(1885)年発行の『熱海獨(ひとり)案内 全』という、いわば熱海のガイドブックに収録された地図には、すでに「西洋料理」の文字がある。文明開化の波が、熱海にも。
明治20年代になると、温泉に加えて温暖な気候や風光明媚な景観が支持されて上流階級向けの別荘地として栄え、熱海に別荘を持つことがステータスに。明治21(1888)年に温泉地としては初めて御用邸が建ったことも、その機運を後押しした。
その後明治30年代には、尾崎紅葉の代表作となった新聞小説『金色夜叉』の名シーンの舞台だったことから「熱海」の名が全国区に。そして明治40(1907)年、小田原−熱海間の熱海鉄道が開通してアクセスが良くなると、政財界の人々や文化人もこぞって別荘を構えるようになり、“東京の奥座敷”と呼ばれるまでに。
別荘文化が花開いた熱海において“三大別荘”と謳われた〈起雲閣〉は、大正8(1919)年に完成。敷地内には伝統的な和風建築のほかに瀟洒(しょうしゃ)な洋館もあり、この地に西洋文化を伝えたことが窺える。また戦後は旅館として運営され、志賀直哉、谷崎潤一郎、太宰治、山本有三といった文豪が逗留、いわゆる“カンヅメ”になって、執筆に精を出した。
そうした文人墨客や別荘族など、舌の肥えた御仁の往来が増えたことで洋食のニーズが高まったのだろう。〈SCOTT〉には、彼らが足繁く通った逸話が残る。また老舗の旅館が駅前に〈レストランフルヤ〉を開いたのも、そうした流れを受けてのことではなかったか。
その後の“日本のハワイ”と称されて新婚カップルが大挙して訪れたハネムーンブーム、昭和39(1964)年の東海道新幹線開通、バブル崩壊期の衰退を経て“奇跡”といわれるまでの宿泊者数のV字回復……。変遷を重ねる熱海の町で長らく暖簾(のれん)を守る2軒の佇まいや名品の味わいは不変。昭和のごちそうの魅力を令和に伝えている。
〈SCOTT〉
熱海の歴史を彩る名士たちの気配を残す折り目正しい名店
戦後間もない昭和21(1946)年。〈村上開新堂〉〈ホテルニューグランド〉など名だたる名店で修業を重ね、戦中には戦地でも腕を振るった料理人・蓮見健吉さんが、熱海湾に程近い繁華街に洋食店〈寿〉を開店。これが〈SCOTT〉の前身だ。
物資が十分でない時代にあって、本格的な味は熱海に住まう、あるいは逗留に訪れる文豪や芸術家の間で評判に。昭和28(1953)年の移転時、アラビア石油の社長の勧めでロンドンのレストランと同じ店名に改めた。
2代目の健一郎さんは、父が確立した自慢のデミグラスソースに磨きをかけ、3代目の健介さんは〈資生堂パーラー〉など都内有名店での武者修行後、現在は厨房で陣頭指揮を。名だたる文化人を喜ばせた豊かな味わいは、脈々と継承されている。
〈レストラン フルヤ〉
昭和の趣を色濃く漂わせ、町の移り変わりを見つめる洋食屋さん
オープンは、昭和29(1954)年。熱海きっての老舗〈古屋旅館〉に生まれた先代・内田昌男さんが、その系列店として熱海駅前に洋食店を構えた。当初は、住居を兼ねた木造2階建てだったが、昭和50年代に現在の建物に。
2代目店主であり、現在腕を振るう内田正さんは、ここで生まれて幼少時代を過ごした生粋の熱海っ子だ。正さんは大学卒業後、横浜のイタリア料理店で修業をし、20代後半から〈レストランフルヤ〉に。
45歳で父の跡を継ぎ、店を守り続けてきた。駅に降り立つ誰もが入りやすい立地。それゆえ、例えば「ポークジンジャー」はメニューにこそわかりやすく“(生姜焼)”と書き添えるが「あくまでベースは西洋料理」と、ワインを使ったソースが味の決め手だ。洋食店の矜持(きょうじ)がにじむ。