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山下達郎はどのように音楽と向き合ってきた?2018年のインタビューをちょい見せ

達郎さんは、なぜラジオで語るのか、なぜオールディーズなのか、なぜ25年も続けてこられたのか……。レコードコレクターだった少年時代から音楽の職人・伝道師となった現在までの、ラジオとの付き合い方、音楽との向き合い方、番組の作り方などを聞きました。
*このインタビューは2018年時点のものです。

photo: Norio Kidera / text: Katsumi Watanabe / hair & make: COCO / special thanks: Fumihiko Shimamura, Hiroya Watanabe

子供の頃の夢は
天文学者になること

僕が生まれた時代は、まだテレビ放送が始まったばかりで、テレビ受信機はとても高価で、家庭ではまだラジオが最大の放送メディアでした。家にテレビが来たのは小学校の3年か、4年生ぐらいの時で、それまではとにかくラジオだったわけですよ。

音楽、漫才や落語、浪曲、ドラマ、あらゆるものを聴いていました。それと、両親が映画好きだったので、よく映画館へも連れていかれました。記憶に残ってる作品で古いものは、ハワード・ホークス監督の『リオ・ブラボー』のタイトル曲を、幼稚園ぐらいの時に木琴で弾いてたっていう。小さい頃は音楽に対する関心はごく平凡でした(笑)。

小学校6年の時、鼓笛隊に入って、打楽器を始めました。音楽の先生が僕のことを贔屓してくれて、可愛がられた結果、女子10人、男子2人っていう鼓笛隊に、無理やりに入れられて(笑)、でも、そこで打楽器と出会ったんです。それまでは宇宙物理に興味があって、将来は天文学者になりたくてね。小学校4年生の時に、渋谷の五島プラネタリウムの会員になって、毎月通っていました。あの頃は、渋谷までの行き方と、記念切手を買いに行く東京駅の中央郵便局までの、2つの道程しか知らなかった。

ブラスバンドとガレージロック

僕の10代には何回か転換期がありまして。まずは、中学校に入学して、部活を選んだ時。学校のクラスって、一番後ろの生徒が答案用紙を回収するでしょ?僕は一番後ろの列だったので、最初は科学部に入ろうと思って、そう書いた。ところが、前に座っている生徒のアンケートを集めていたら、ブラスバンド部の希望者が2人もいたんですよ。そんなに大勢いるなら面白いかもしれないと思い、ブラバンと書き直して出しました。

いざ、部室へ行ってみると、僕のクラスからは、同じ列の2人だけだったんです(笑)。あそこが僕の10代での一番大きな運命の分かれ道でした。あれがなかったら、絶対にミュージシャンにはなっていない。

その後、中学校高校と6年間、パーカッション担当でした。ほかには別に楽器を習ったことはなくて、すべて独学です。

中学校では親友が2人できました。一人は、ブラバンで一緒になったトロンボーン担当の友人。医者の息子で、小学校の頃からギターや英語を習ったりしていた。当時はベンチャーズの全盛期、ビートルズも人気があったんだけど、彼は風変わりで、当時の日本では通好みだったビーチ・ボーイズが好きだったんです。そいつが僕の最初のポップスの先生でした。もう一人の友人は、地主の息子で、広い敷地の中にガレージがあって、そこの2階部分を自分の部屋にしていた。中学校の時は、夜中に音を出しても全然大丈夫だったんですよ。

高校生くらいになると、さすがに夜に楽器の音は出せなくなりましたけど、歌う分には24時間いつでもOKで。そこには大きなステレオセットがあって、いい音でレコードを聴くこともできた。そうこうしているうちに、みんなでバンドを組んで、最初の自主制作レコードもそこで作ることができた。友達のネットワークのおかげですね。

高校生の時、70年安保とも相まって、僕は学校をドロップアウトしてしまいます。学校には趣味の合う友達もいなかったし、3年生の時なんか半分ぐらいしか行ってない。でも、友達のガレージがあったから、そこに逃げ込むことができたんですよ。友達のご両親、特にお母さんが理解のある方で。

僕のほかにも、そこを根城にしている友人が結構いました。そのおかげで何とかミュージシャンになれましたが、あのガレージがなかったら、池袋をウロウロして、グレてヤンキーかなんかになっていたかも。それは、いくら感謝してもしきれません。

ラジオ収録中の山下達郎

ラジオから培った、
いい音楽を聴き分ける耳

友人からの影響もあって、中学からは洋楽トップ40への興味が増していきました。ブラバンでドラムだったことから、ベンチャーズのメル・テイラーのドラミングにあこがれて、見よう見まねで演奏していました。ベンチャーズは基本的にカバーバンドで、流行りのヒット曲をインストで演奏するわけです。次第に、そのオリジナルに興味がいくようになった。そういうことがキッカケで、僕はヒットチャートに関心が湧いていったんだと思います。

中学高校の頃は、朝から晩まで、起きている時間は、ほとんどFEN(Far East Network=極東放送)を聴いていました。だから、僕のラジオの原点はFENということになります。高校の試験の前、FENをかけながら勉強をしていると、1時間に1回ぐらいヘビーローテーションでかかる大ヒット曲があるんだけど、そういうのにはあまり興味がなくて、気になるのはビルボードの20位とか、30位あたりの曲なんです。

メジャーなものには興味がなくて、ちょっと横道に逸れたものというか、日本ではあんまりヒットしてない曲に感動していたんです。そうやって好みの曲を聴いていくうちに、ある共通のファクターを発見したんです。調べてみると、好きな曲が同じ作曲家のものだった。

あと、僕はドラマーだったので、ドラムを中心に聴くことが多かったんだけど、ドラムがカッコいいなと思った曲は、すべてハル・ブレインが叩いていることが後でわかって。あとは、好きなサウンドが同じプロデューサーだったり、アレンジャーだったり。そうやって歌手よりも、ソングライターやアレンジャー、プロデューサーなどの裏方に、どんどん興味を持つようになっていったんです。共通する音楽的背景を聴き分けられるようになったことで、自己肯定というか、自分の耳が信用できるようになった。それもまたラジオの恩恵といえると思います。