ドキュメンタリーは映画を束縛から解き放つ
ホンマタカシ
以前、東京造形大学で諏訪敦彦監督とドキュメンタリーについて議論する授業を行っていたんです。そのときにみんなと話したのは、撮りたいイメージがあって、それを追求する監督がいる一方、ワン・ビンさんはその場で起きる出来事をただ見つめているなと。
ワン・ビン
私がそういったスタイルでドキュメンタリーを撮るのには理由があります。もともと映画製作において、脚本の力は特に大きなもので、それが映画を制限してきました。だから多くの監督が脚本による束縛から映画を解き放とうとしてきましたよね。特にドキュメンタリーは、脚本の束縛から逃れて自由に物語れるジャンルです。
ドキュメンタリーが特殊なのは、実際に人の日常生活についていくところ。すべてがその真実の生活の中で展開してくわけです。生活というものは、偶然性と未知性に溢れていますよね。それを捉えることで、物語の叙述は自由になる。ドキュメンタリーの特徴とは、そこにあると思います。
虚構の中に少しでも真実を
ホンマ
授業ではほかにフレデリック・ワイズマン監督の作品を取り上げました。ワイズマンのドキュメンタリーをどう思いますか?
ワン
彼の作品はもっと文学的だと思います。彼が則(のっと)っているのは、編集を主体にした、文学的な叙述のスタイルなんでしょう。私の場合は撮影したショットによって叙述していくスタイルですから。
ホンマ
そうすることによって偶然性や未知性を取り入れている?
ワン
そうでしょうね。私がカメラを通してやりたいのは、まず記録すること。もちろんすべての映画がなんらかの意味で記録しているわけですが、私は記録するというカメラの特質を最大限に生かして、物語を叙述したいと考えています。どうやって物語を語るかは、映画の一大問題です。
劇映画の場合、物語はフィクションですが、ドキュメンタリーであってもそれは虚構なんですね。でも記録することで、虚構の中に少しでも真実を取り入れられる。真実に対する人間の干渉を、最小限に抑えることができるんです。
ホンマ
映画創成期のリュミエール兄弟の映像を観ながら、諏訪監督とも映画の“自生性”について話したことがあります。つまり作り手の意図を超えて、カメラが自ら映し取ってしまうということですよね。それこそが映像の特質なんじゃないかって。
ワン
ええ。リュミエール兄弟が駅に到着する汽車の映像を撮ったときから、カメラの持つ記録するという機能が映画においては大事だったんだと思います。
私が常に考えているのは、カメラに自ずから備わるその能力を生かすということ。ワイズマン監督は撮影において、自身が録音に回るくらいですから、やはり撮ることよりも編集を大事にしているんでしょう。
ホンマ
今回の『青春』では、若い男女が痴話喧嘩する様子も映していますよね。それがすごく面白かった。
ワン
今回の作品は20歳前後の若者たちの様子を撮ろうと計画して、彼らの生活の中に入り込んでいったものなんです。すると、主題の大きな一つは恋愛になる。必然的にそういう方向性の物語になりました。
ホンマ
もう一つ大きな核になっているのが、雇用主に対して若者たちが賃上げ交渉をするシーンです。すごくエキサイティングでしたが、よく撮影の許可が取れましたね?
ワン
実は特に許可を取っているわけではないんです。撮影については、自分で工場に行って説明したり、つてを頼ったりして、だんだんと信頼関係を構築していくことで撮らせてもらいました。
ホンマ
日本では、おそらくああいうシーンは撮れません。
ワン
中国でも実際は難しいんですよ。工場のある織里という町には、初めは知り合いがいなかったので、誰も生活を撮らせてくれませんでした。だから方法をいろいろと考えて、1ヵ月の期間を費やし、現地の人たちと交流した。そうやって問題を解決していったんです。