森山未來、ついに鬼才と邂逅
映画『ほかげ』で、塚本晋也作品初参加となる、俳優・森山未來さん。以前、11名の役者が実写化したいマンガを選び、役作りしていく様子を追うフェイクドキュメンタリー『このマンガがすごい!』に、それぞれゲストとして参加した際、そのアプローチの半端でなさに衝撃を受けたとか。
「塚本作品は、映画の良心を感じさせますよね。塚本晋也という監督、作家の視点で描かれる物語に、圧倒的な力強さがあったので、僕は今回、塚本ワールドに飛び込むだけだったと言っても過言ではないですね」
苦しさや死は、どこに隠れているのだろうか?
森山未來
刷り込みもあるかもしれませんが、子供時代は、武器が誰かの命を奪ってしまう危険なものだと実感を持ってはいなかったと思います。
塚本晋也
アメリカ映画の影響もあるし、「銃、かっちょいい」ぐらいの距離感がリアルですよね。小さい頃は、手頃な棒を見つけると、これは俺の棒だ!一生持ち歩くぞ!となってましたね。
森山
わかります(笑)。江戸時代であれば、刀をよりヒリついたものとして見ていたでしょうし、現代のアメリカであれば、銃をもっと生々しいものとして認識しているでしょうけれど、今、日本で生きている人にとっては、生死に関わるものとしての武器とは距離があるというのが現実かなと。
塚本
こういう映画を作っていると、だんだん武器に対する認識が変わってはきます。例えば、銃なんてなくなってしまえばいいと思う。
でも、難しい。映画『鉄男』を撮ったときに考えていたことですが、鉄と人間は、強い恋愛関係にあるんです。それは『2001年宇宙の旅』の冒頭シーンにも象徴されていますね。
森山
猿が棒、持ってますね。
塚本
そう。相手の猿をやっつけた棒を投げると、宇宙船になる。残念ながら、その過程で生まれる兵器や戦車とはどんなに否定しても切り離せないんです。
棒でぶん殴るのももちろんダメですが、遠い距離を狙える兵器は卑怯だと思う。距離を延ばし力を増大させたという部分でのテクノロジーの進化には、どうしても反発を感じます。
苦しさや死のイメージと向き合う
塚本
『野火』のときは、自分は経験していない戦争の映画を撮ることについてさまざまな意見が出ることは重々わかりつつ、においも含めた何から何までが浮かび上がってくる原作の素晴らしさがありましたし、同時にインタビューできる兵隊経験者の方もいたので、躊躇(ちゅうちょ)せずに作ることができました。
ここから先、戦争を完全に知らない人たちが、どんなふうに戦争映画を作っていけばいいのか。それは大きな課題になると思います。自分はその答えをまだしっかり用意できていませんが、だからやらない、というわけにはいかない。結局、同じ人間ですからね。
たくさんの文献を読めば、共通する部分を見出せて、きっと実感を持って描くことができるだろうと考えています。
森山
日本の戦争体験者は、もう間もなくいなくなってしまうかもしれませんが、悲しいかな世界に出れば、どこかしらに必ずインタビューできる人がいます。
それに、例えば、塚本さんにとって、戦争を知る経験は、子供時代に、渋谷の井の頭線のガード下に、いつも傷痍(しょうい)軍人さんがいたことだとお話しされてましたよね。
塚本
その光景は、印象に残っていますね。
森山
僕の地元にも、幼少期はホームレスも含め、いわゆる世間からちょっとズレたとされる生き方をしている人たちが街中にちらほらいて。そういう人たちを見ると、現実との歪みに気づく。
世間一般とされる世界でそれぞれがさまざまなものを抱えていることが見えてくると思うんです。ただ最近はそういう人たちがいなくなったわけじゃないのに、どんどん隠されていっていると感じます。
塚本
平和な生活だけ見せて、本来きちんと見つめなくてはいけない苦しいものや死のイメージそのものを隠す傾向は、わりとありますよね。自分は母が亡くなる瞬間も、まさに消えていくところまでしっかり目を開いて見ましたけど。
森山
コロナ以降、人は生まれる瞬間と死ぬ瞬間を見ることができなくなった、と言いますね。
塚本
死体自体、そうそう見られないですからね。自分はできるだけ体験したいと思いますし、ちゃんと死を見て、いつか自分もそうなるとわかった方がいいと思う。
そういうものが隠されている状態だと、すべてバーチャルリアリティや夢のように感じてしまうのではないでしょうか。