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“翻訳家としての村上春樹”は何がすごいのか?小野正嗣、辛島デイヴィッドに聞く

“作家・村上春樹”を支える、あるいは双璧をなすのが“翻訳家・村上春樹”の顔。翻訳家としての個性とは?小野正嗣と辛島デイヴィッド、2人の文学者と日英対訳を参照しながら読み解く。

text&edit: Sawako Akune

村上春樹が小説創作と並行して翻訳も手がけているのはよく知られたところ。キャリアのごく初期から翻訳作品を発表し続け、これまでに出版された翻訳書は90冊を超える。“翻訳家としての村上春樹”には、どんな個性があるのだろう?芥川賞をはじめとする数多くの文学賞を受賞した作家で、フランス語圏の書籍の翻訳も手がける小野正嗣と、日英翻訳家として日本文学を欧米へ紹介する傍ら、村上文学の世界での広がりをまとめたインタビュー集『Haruki Murakamiを読んでいるときに我々が読んでいる者たち』(A)も著した辛島デイヴィッドに、英語の原書と村上春樹の翻訳を突き合わせながら読んでもらった。

同時代のアメリカ文学の優れた目利き

———“翻訳家・村上春樹”がこれまで日本語に訳してきた作品は90冊余り。それぞれの書籍に含まれる短編などまでカウントすると相当数に上ります。訳出している作品に傾向を感じますか?

辛島デイヴィッド

村上さんが訳している作家の筆頭格としてまず挙がるのは、レイモンド・チャンドラー(B)、レイモンド・カーヴァー(C)、J・D・サリンジャー(D)、スコット・フィッツジェラルド(E)といったあたりでしょうか。白人男性作家の作品を多く訳しているイメージが強いかもしれませんが、実は村上さんはご自分で短編集なども編んでいて、そこにはかなりの数の、日本ではあまり知られていない作家や、女性作家の作品なども含まれています。

それらは、いくつかの例外を除けばアメリカ文学が圧倒的に多いですね。村上さんが翻訳を手がけてきた70年代以降の同時代文学が大半で、それも“準古典”とでも言うべき作品を多く訳しているのは興味深い点です。アメリカの大学でアメリカ文学の授業をとると必ず読まされるような、“作家志望の学生なら読むべきリスト”に入っているような作品。

例えばティム・オブライエン(F)の『兵士たちの荷物』やグレイス・ペイリー(G)の『父親との会話』、ジョン・チーヴァー(H)の『再会』とか……。それぞれ、英語圏でも多くのアンソロジーに収録される佳作です。

小野正嗣

それも当然ながら“読むべきリスト”に入っているから読んだわけではないんですよね。『The New Yorker』(I)に発表された時点で読んでいたり、それで気に入れば知られていない作家でも短編集を買って読んだりと同時代の文学シーンにも常に目を光らせているのでしょう。そうやって訳してきた作品を振り返ると、結果的にはアメリカ文学のまさに“読むべきリスト”に値する作品をたくさん訳しているわけで。村上さんの翻訳をつぶさに読めば、優れたアメリカ文学に触れることができる。

辛島

カーヴァーやグレイス・ペイリーはほぼすべて訳していますね。

小野

圧倒されちゃいますよね。

一人の作家の全作を訳す強い責任感

辛島

特にカーヴァーの作品は相当数。それを最初から最後まで訳すと決めて訳している。強い責任感を感じます。

小野

すると、なかには訳していてイマイチだなと思う作品もあるわけでしょう?村上さんは、あとがきでその感想も率直に書くんですよね。優れた作品はその素晴らしさについて、作品として弱い部分があると思ったときにはそれをきちんと指摘する。翻訳者として誠実な仕事ぶりだと感じます。

辛島

そうそう、あとがきがとても面白い訳書が多いですね!そこを読むと村上さんの「声」が聞けるし、作品の理解を深めてくれるのでおすすめです。村上訳はあとがきまで飛ばさず読むべし(笑)。

小野

あとがきまで手を抜かない。いや、もちろん翻訳者は誰しも手は抜きませんが、村上さんの場合、あとがきも作品であり、単語や表現の選択など隅々に至るまで、まさに全方位的に意識が行き届いていると感じます。そしてそれはむろん訳文そのものにもいえます。

全方位的に意識を張り巡らせた訳文

———訳文の話が出てきたので、具体的に村上訳が優れていると感じたポイントを拾っていきましょうか。

辛島

「ここがうまい」「この部分がいい」と挙げていったらキリがない。本当の意味で村上訳の魅力を伝えるならば、やはり作品全体を読まないと、とは思います。ここではあくまで理解の補助線として、いくつか選びました。

小野 

確かにどの訳書も、どこを抜き出しても「うまいなあ!」と発見がありますよね。僕はまず、去年出たカーソン・マッカラーズ(J)『心は孤独な狩人』の翻訳に感動したので、そこからごくわずかだけ拾いました。

村上春樹は翻訳家として何がすごいのか? 一文の区切りの巧みさ

辛島

小野さん、「マッカラーズの村上訳が良かった!」って、出版されてすぐに言ってましたもんね。

小野

それこそ訳者あとがきに、20歳くらいのときに初めて原書に出会い、以来半世紀以上、大切な愛読書だったと書かれています。チャンドラーの『ロング・グッドバイ』(K)、サリンジャーの『フラニーとズーイ』(L)、トルーマン・カポーティ(M)の『ティファニーで朝食を』などと並んで「もっと経験を積んで翻訳者としての腕が上がったら、いつか自分で訳してみたいという作品」であり、その中でも最後までとっておいた作品だと。それだけあってよく練れた名訳。長い小説ですが、ぜひ読んでみてほしいです。

一文をどのように区切っているかを気をつけて比べてみるだけでも唸らされる。原文を損なうことなく、日本語としていかに滑らかに読めるかを重視している印象です。

精読に精読を重ねて最適な言葉を選びとる

辛島

日本語としての滑らかさに関連して、僕は一人称の訳し分けが達者だなあと思います。ここではチーヴァーの短編『再会』から例を挙げました。カーヴァー作品などでも“僕”“俺”“私”といった一人称の揺らぎは頻出します。

村上春樹は翻訳家として何がすごいのか? 一人称の訳し分け

小野

つまり翻訳した先の日本語のリアリティに寄せているんですね。僕らも普段、それがフォーマルな場か、カジュアルな場かといったTPOに合わせてほとんど無意識に一人称を変えるわけだから。

辛島

村上訳はその精度が高い。微妙な差をすくい取って訳し分けていると感じます。もう一ヵ所挙げたカーヴァー『風呂』は、できれば音読してみてほしいです。日本語は主語を省いても成立する言語ですが、この部分では “The birth-day boy” という主語を「誕生日を迎えた子供」という、英語の語感より長く、耳につく単語に訳し出したうえで、あえて省かず残している。それによって日本語がリズムを持って立ち上がり、シーン全体がより印象深いものになっています。

村上春樹は翻訳家として何がすごいのか? リズム感のある訳文

小野

精読を重ねて、最適な日本語を導き出しているんですね。村上さんの翻訳の多くを、翻訳者でアメリカ文学者の柴田元幸先生(N)がチェックしているのはファンならよく知っていること。柴田先生には僕も昔からお世話になっていますが、翻訳とはどのような行為なのかについて、こんなふうに話しているのを聞いたことがあります。「自分だけが踏み台の上に乗っていて、壁の向こう側の庭で起きている面白いことが見えている状態で、そこで何が起きているのかを壁の手前側にいる友達に実況中継してあげること」であると。

村上さんは、その“実況中継”がとても上手。実際にその場に身を置いて描写している感じです。音が聞こえ、匂いまで漂ってくる、そんな訳文が多いですね。それは一つには、豊富な語彙力と卓越した描写力があるということだと思います。自身の書き手としての優れた力が翻訳でも生きている。

辛島

言葉の引き出しがとてつもなく多いのでしょうね。そういう語彙力と描写力を示す一つの例として、僕は『グレート・ギャツビー』から例を挙げました。フィッツジェラルドの原文ももちろん美しいですが、訳文もそれを損なうことなく写し取っている。会話体より、地の文に力が発揮されることが多い気がします。

村上春樹は翻訳家として何がすごいのか? 圧倒的な語彙力と描写力
村上春樹は翻訳家として何がすごいのか? 圧倒的な語彙力と描写力

小野

僕はアンソロジー『恋しくて』(O)に収録されたトバイアス・ウルフ(P)の「二人の少年と、一人の少女」と、アリス・マンロー(Q)の「ジャック・ランダ・ホテル」からです。

マンローの “In be-tween the ridges,” 以下の訳文なんて、読んだ瞬間にぱっと情景が思い浮かぶ。それからウルフの “with liquid shadows playing over” 以下の訳「ウィンドウを流れる雨の筋が濡れた影を落とした」なんて、見事すぎてため息が出ます。

それから “ritually humble” の「表向き謙遜」という訳は、なにげないけど、僕には出てこない言葉選びです。どれも原文と比較しながら訳文を読むと「ああなるほど!」とは思うものの、もし自分で訳したら絶対に思いつけない(笑)。

———翻訳作品が村上さんの小説に生きている、あるいはその逆はあると思いますか?

辛島

うーん、何かしらはあると思います。なんせ翻訳作業は高校生のときから好きでやっていたと言っているくらいだし、『騎士団長殺し』は『グレート・ギャツビー』へのオマージュだったりするし。

小野

翻訳を通じて小説を学んだ感じはあるんじゃないかなあ。小説家としてのデビュー時にもアメリカ現代文学の影響は指摘されましたし。ただしさすがだなと思うのが、好きな作家のように書いてみようと思ったところで、普通はそううまくはいかないことです(笑)。

“村上さんの訳”が読めるのは日本語で読むことの特権

辛島

あとは、小野さんと2人で「やれやれ」という訳語を拾ってみたのですが、想像以上に意味のレンジが広かった。

村上春樹は翻訳家として何がすごいのか? 「やれやれ」という万能語
村上春樹は翻訳家として何がすごいのか? 「やれやれ」という万能語

小野

引き出しという点では「やれやれ」の引き出しだけ異様に大きい(笑)。小説の「やれやれ」を知る手がかりにもなるのかもしれない。

辛島

最近読んだ『The New York Times』で、大谷翔平に関して、「打者か投手、どちらかに専念すべきだったという既存の野球論は通じない」というような記事を読みました(笑)。村上さんについてもそれが言えるんじゃないなかな? 小説に専念していればもっと良かった、とは到底思わない。

小野

うん、小説と翻訳は、確実に両輪なのでしょうね。どちらかが欠けることはない。さらに、村上作品の翻訳は世界じゅうの人が読めるけど、村上さんによる翻訳作品を読めるのは日本語でだけなんです。だからこそ、日本語を読める僕たちは、その特権を享受したいですね。

幻想的な世界を遊ぶ児童書や絵本

クリス・ヴァン・オールズバーグ『魔法のほうき』
アーシュラ・K・ル=グウィン『空飛び猫』
『おおきな木』村上春樹訳

「村上さんの翻訳作品は、小説だと準古典といえる作品が多いという話をしましたが、児童書や絵本の翻訳となると、一転して幻想的でぶっ飛んだ作品揃い。うまくバランスがとれているなあと思います。『魔法のホウキ』の作者クリス・ヴァン・オールズバーグ(R)は、村上さんはもともと彼の絵が好きだったそうで、相当数訳しています。アーシュラ・K・ル=グウィン(S)の『空飛び猫』もシリーズもの。僕も子供たちに読み聞かせています。なかなか贅沢ですよね(笑)」(辛島)