色褪せないモダンな空間で味わう美しい一皿
店主の好きな世界観や情熱が具現化した宝箱のような空間である喫茶店に夢中になって十数年。最も熱心なときは、年に450軒あまりを訪れて、それぞれの内装や雰囲気を楽しんだ。色とりどりの心ときめくクリームソーダや果物で飾られたノスタルジックなパフェを食べる甘いひとときもよいが、時間帯を問わずさっと食事ができるのも喫茶店の魅力のひとつ。
例えば、オムライス。卵は高円寺〈ごん〉のような薄焼きか銀座〈you〉のようなふわふわか、中のごはんはケチャップライスなのかバターライスなのか、シンプルなケチャップのみではなくソースがかかっているところもある。組み合わせは店によってさまざまで、飽きが来ない。
中でも「ハンバーグやオムライスが食べたい」と思ったときに、頭に浮かぶのは都立家政の〈つるや〉だ。一見すると住居に見えるため、長く近隣で暮らす人たちもこちらが喫茶店とは気がつかないという。しかし、扉の向こう側には、50年以上の時間を経ても決して古くならないモダンな空間が広がっている。
早稲田大学所沢キャンパスや西武ライオンズ球場(当時)など名だたる空間を設計した建築家の池原義郎氏が親族だったことから手掛けた内装。大きな窓の向こうの岩や灯篭(とうろう)などが飾られた緑豊かな庭を眺めると、置物であるが今にも飛び立ちそうな2羽の鶴たちがのびのびと日光浴をしている。
天井は細長い木材がアーチを描いて波打ち、その間には蛍光灯が埋め込まれた特徴的なデザイン。背もたれが少し後ろに反って、寛(くつろ)ぐために作られたような椅子は、1969年の創業当時から使用されている山形県の〈天童木工〉のもの。
現在、3代目の渡部みゆきさんと2代目で母のゆきこさんが店を守る。私と〈つるや〉との縁は、拙著『純喫茶の空間 こだわりのインテリアたち』の取材オファーを受けてくださったことから始まった。明るくてフレンドリーなお2人のおかげで、親戚の家に遊びに来たような気分になって、珈琲を飲みながら閉店時間まで話が尽きないこともしばしばだ。
腰のみならず気持ちもゆっくりと落ち着けて頂けるのは、創業当時からのレシピが守られている洋食の数々。
家の食卓では、創業者で明治生まれのみゆきさんの祖母が知人のシェフから習った洋食が並ぶことも日常だったとか。例えば、「ごはんに細かく切ったキャベツを敷き、その上に熱々のカツを載せてカレーをかけたカツカレー」が定番だったそう。
〈つるや〉の歴史あるメニューのひとつひとつにも同様のこだわりがあり、かなりの手間がかかっている。まず、サンドイッチ。「肉は肉屋で、魚は魚屋で買いたい」というポリシーから、ハムは近くの精肉店で質の良いロースハムを仕入れている。
次に、1つ200グラムと食べ応えのあるハンバーグも同じく、精肉店からミンチを買ってきて、タマネギ、卵、パン粉などを加えて店で成形するなどあくまでも自家製にこだわる。添えられたサラダのドレッシングも、材料を配合してから1日か2日寝かす。そうすると酢がまろやかになっておいしくなるそうだ。
今回、一番驚いたのは、オムライスの中のごはんのレシピだった。一般的なチキンライスではなく、なんとカニピラフである。大量のタマネギをスライスしてきつね色になるまで3時間ほど炒め、細かく切ったマッシュルームと煮て冷蔵庫で1日寝かせた後にたっぷりのカニ缶と混ぜる。それを一人前ずつに分けて冷凍しておく。
注文が入ってからそれを解凍し、冷やごはんと混ぜて炒める。冷凍庫の中でじっと出番を待っているカニピラフの具の健気な様子を想像したら愛おしくなってしまう。
そして、重たい鉄製のフライパンを軽々と振るう85歳を迎えたゆきこさんの腕力にも。カニピラフとふわふわのオムレツ、それだけでもじゅうぶんにおいしいのに、さらにその上にはハンバーグと同じく時間をかけて丁寧に煮込まれたデミグラスソースがたっぷりかけられるという贅沢……。
おいしさの3層にスプーンを入れながら、喫茶店のメニュー表に並んでいるのは、ほとんど洋食であることに気が付いた。多くはナポリタンやオムライスなどのメニューである。喫茶店で何気なく食事をとるとき、意識せずともいつも洋食を楽しんでいたのだ。レストランで背筋を伸ばして味わう洋食が「ハレ」だとしたら、喫茶店で頂くのは「ケ」の洋食だ。
誰かが自分のために作ってくれる食事という嬉しい共通点がありながら、喫茶店でのそれは雰囲気や価格のためか、気負いがないところが魅力のひとつ。店の数だけバリエーションがある洋食の違いを楽しむことができる。そんな場所が街中のあちこちにあるのはなんて素敵なのだろう。今日もそんな時間をもとめて近くの喫茶店へ出掛けよう。