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トーキョーの夜のつくり方。〈SOUND MUSEUM VISION〉村田大造×〈翠月 -MITSUKI-〉RYUZO対談

週末、夜0時を過ぎた頃の渋谷・道玄坂。時にタクシーの空車を見つけるのも困難なほど、多くの若者で賑わう。なかでも村田大造さんによる〈SOUND MUSEUM VISION〉〈Contact〉、そしてRYUZOさんによる〈翠月 -MITSUKI-〉は行列ができることも珍しくない。人が集い、音楽が生まれる夜の遊び場をつくる2人に話を聞いた。

photo: Naoto Date / text: Rio Hirai

新しい音楽と出会うために
場所をつくる

RYUZO

僕が上京する前から、大造さんがつくった場所には遊びに行っていました。先輩たちから聞く〈P.PICASSO〉や〈CAVE〉の話も面白くて、行ってみたかったですね。

村田大造

〈P.PICASSO〉をプロデュースした1985年頃は、音楽といえばロックかパンク。アメリカで流行っていたシカゴハウスを大御所のDJに聴かせても「こんなの音楽じゃない」と一蹴されたことがあるくらいで(笑)。当時は1年くらいのサイクルで海外からハウスやテクノ、ヒップホップなどの新しい音楽がどんどん入ってきていた時代だったから、これからはジャンルが融合して価値が育まれるだろうと期待していました。

その後1991年に、初めて渋谷に〈CAVE〉というクラブをつくられます。渋谷という街を選んだ理由は?

村田

新しくて素晴らしい音楽を、もっと多くの人に聴いてもらいたかったんですよね。今は新たに生まれたものも世界中で同時に享受できるけれど、その当時はレコード屋も少ないし試聴もできない。音楽と出会うならクラブに行くのが一番早かったわけです。西麻布はディープで面白い人が集まっていたけれど、渋谷は当時から若者が新しいファッションを探しに来る街だったから、新しい音楽を面白がってもらえるだろうと思った。

〈CAVE〉では、トランスをかけるDJ K.U.D.O.と、ワールドミュージックをかけるDJ AGEISHIが同じ夜にプレーしていたり、一夜で2フロア全く違う使い方をして、文化をミックスさせていました。

RYUZO

僕が渋谷に遊びに行くようになった1990年代後半〜2000年代初頭は、ヒップホップが隆盛していました。アメリカ中のレコードが日本に集まってきていたんじゃないでしょうか。ラッパーのANARCHYと一緒にライブに出るようになってからは〈SOUND MUSEUM VISION〉にもお世話になりましたね。売れる前で冷遇を受けることもあったなか、アーティストへのリスペクトを感じる箱でした。

村田

僕が箱をつくる時には「自分が遊びに行きたい場所」であること、あとは「アーティストにとって必要な場所」であることを大切にしています。DJにプレーを楽しんでほしいから、一番音が良い場所にブースをつくったりね。

RYUZOさんが、2016年にレコードバー〈BLOODY ANGLE〉をオープンさせた経緯は何だったのでしょう。

RYUZO

僕も大造さんと同じで、「自分が遊びに行きたい場所」が欲しかったから。上京してから膵炎(すいえん)になるくらいまで渋谷で遊んで(笑)、少し落ち着いてきた頃に、レコードが聴けるバーが欲しいなと思ったんです。

村田

僕が〈DJ BAR Bridge〉をつくったのも、食事をしたあとクラブに行く前に立ち寄れる店が欲しくて。あとは長く活動していて質も良いDJたちが活躍する場所をつくりたかった。自分がやりたいことをやりたいようにやれるのも、小箱の良いところですね。

やりたいようにやるから、
出会える新しいもの

RYUZO

僕も〈翠月 -MITSUKI-〉やコンセプトショップの〈DOMICILE TOKYO〉は、自分よりも若い世代の子たちに任せてやりたいようにやってもらうようにしています。そしたら勝手にコミュニティができて、オリジナルな場所になってきているんですよね。

村田

自分らしく自由に遊べる場所がいいよね。僕たちがクラブを始めた時は先輩もいなかったから遠慮もしなかった。今の若い世代も、自分の“勝ち筋”を自分で見つけていますよね。

RYUZO

住んでいる場所に関係なく同時進行で曲も作れるし、流行の移り変わりも速いなかで、自分たちらしい音楽をやろうとする子たちは多いですね。一方で、遊び場も多様化しているから、なかにはただBGM係になってしまって、音楽を知らないDJもいます。

村田

良くも悪くも「頼まれたことに的確に応える」職人のようなDJも増えているよね。僕はアーティストであってほしいとも思うんだけど……。みんなが好きな音楽をかけるのもいいけど、クラブは未知の音楽との出会いの場でもあるから、自分勝手さや自由さがあってもいいと思いますよ。

RYUZO

キャバクラやホストクラブのアフターの場になって、音楽そっちのけでシャンパンを開ける音が響いているようなクラブもありますからね。地域によって風営法による制限が違うなど色々事情があるのでしょうけれど。

無駄なものを追い求めて
成長してきた街・渋谷

村田

もちろん儲けがないと店もDJも続けられないからね。でも渋谷は、無駄と言われても“何か”を追い求める人たちが集まって、無駄を原動力に動いてきたような街。その文化を大切にするためにも、店がパイの取り合いをするのではなく、パイを大きくしていくためにそれぞれの役割を果たすべきだと思います。そのための一つが2016年の風営法改正で、渋谷で24時間営業が認められたことでした。

再開発も進む渋谷で、これからつくりたい場所はありますか。

RYUZO

僕自身が、仕事もすべて夜の遊び場で出会った人とやっているので、若い子たちにとってそういう場所をつくりたいという思いがあります。「あそこがあったから今がある」なんて言ってもらえたら嬉しいですよね。

村田

〈SOUND MUSEUM VISION〉と〈Contact〉が2022年9月で閉店なので、1000人規模で音楽を楽しめる場所をつくりたいと思っています。あとはベースの音を中心とした、ジャマイカみたいなサウンドシステムの店をつくりたいんだよね。めちゃめちゃ大きな音が出せるような……。結局はまだ、自分が遊びたいんですよ。

RYUZO

僕も遊びたいんですけど、ありがたいことにうちの店にはラッパーもたくさん来てくれるんですよ。僕を知っているやつからしたらのびのび飲みづらいだろうなと思って、あんまり行けなくなりました。

村田

気を使わせたくないんだよね。また新しい店をつくらないと(笑)。

村田大造が手がける店

東京〈DJ BAR Bridge SHIBUYA〉店内
東京〈SOUND MUSEUM VISION〉フロア
東京〈Contact〉フロア

RYUZOが手がける店

東京〈翠月 - MITSUKI -〉フロア
東京〈MADAM WOO TOKYO〉ポールダンサーのショー
東京〈BLOODY ANGLE〉店内