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美食とは何か?菊地成孔×廣瀬純の思考する美食談義

美食とは何か?こんなにもシンプルな問いの先には、デンジャラスな世界が広がっていた。美食家として知られる菊地成孔氏と『美味しい料理の哲学』の著者である廣瀬純氏が、〈EDITION KOJI SHIMOMURA〉で料理を味わいながら語り尽くす、危険な食談議。

初出:BRUTUS No.838「危険な読書」(2016年12月15日発売

photo: Yosuke Suzuki / text: Keisuke Kagiwada

美味しい料理には“宇宙の風”が吹いている

菊地成孔

2004年に、「音楽で分子ガストロノミーをやる」というコンセプトで『Degustation a Jazz』を作ったんですね。科学的な手法を取り入れた料理を出す〈エル・ブリ〉のデギュスタシオン・コース(小さい料理が数十皿運ばれてくるというスタイル)を図式的に真似して、2分以内の曲を60曲作ったんですが、この作業を終えた直後くらいに廣瀬さんの『美味しい料理の哲学』を読みました。焼き鳥からパスタ、トンカツ、たこ焼きまであらゆる料理を“骨付き肉”として分析するという新鮮かつ啓発的な本なんですが……。

廣瀬純

あの本では「あらゆる料理には“骨付き肉”という構造が見受けられるのではないか?そして、それが“美味(おい)しさ”を生み出しているのではないか?」という仮説を立てました。例えば、焼き鳥は串に刺さっている。お客さんに出す際に串から抜いてお皿に盛ってもいいのに、そうはしない。

それは串という“骨”に肉が吊り下げられることが焼き鳥の美味しさを形作っているからではないか?ピンチョスやシシュケバブなど、世界には同じような串料理が数多くあるが、それは、やはりその“骨付き肉”構造こそが美味しさの秘訣だからではないか?

そう考えるなら、串に刺さってなくても、例えばパスタ料理を考えると、パスタという“骨”にソースという“肉”を絡めると考えれば焼き鳥と同じ構造といえるのではないか?トンカツは、肉の外側が骨で覆われた甲殻類タイプの骨付き肉として考えられるのではないか?と、だいたいそんな感じです。

菊地

そして、その本の最後が〈エル・ブリ〉で終わっている。そこに感動しました。そもそも現在にまで続くフランス料理って、フランス革命でバラバラになった料理人たちが傷ついた民衆に“レスト(休息)”を与えるってレストランからスタートしたわけですよね。だから、出していた料理は、今でいう漢方料理とか精進料理みたいなものだった。

でも、それがだんだんと肥大してきて、ソースにものすごい時間をかけ始めた。こうなるともう蕩尽(とうじん)ですよね。その反動として、より素材を生かす形での調理法を重視したヌーベル・キュイジーヌが生まれ、〈エル・ブリ〉をはじめとするポスト・ヌーベル・キュイジーヌが生まれたという。廣瀬さんの本はそういう歴史をちゃんと踏まえているのが興味深かった。

廣瀬

ヌーベル・キュイジーヌの重要性っていうのは、そこに「宇宙を感じようぜ」っていう思想があったことだと思うんです。ドゥルーズとガタリによる共著『哲学とは何か』には、そこを考えるうえでとても重要なことが書いてあります。この本は「肉」批判から始まるんですね。

ここでの肉とは現象学的な意味です。現象学者は「僕たちの生活がうまくいっているのは肉のおかげだ」って言うわけですよ。これは「私も他人も肉であるのは同じだ」といった意味で捉えればいいと思うけど、とにかくそう言う。

これに対し、ドゥルーズとガタリは「肉だけだと軟らかすぎて信仰で支えないといけなくなる。肉の力を信仰なしに引き出すには、肉を“家”に入れたうえで、さらにそこに“宇宙の風”が吹かなきゃいけないんだ」と、だいたいこんなことを言う。これを僕の骨付き肉理論に転用するなら、肉(=素材)の力を引き出すためには骨(=家)が必要である。

しかし、家に閉じ込めるだけではまだ足りない。窮屈な味になってしまう。真の美味しさに到達するためには窮屈さを逃れるような“宇宙の風”を吹かせて、肉を遊ばせてあげなければならない。

菊地

遊ばせてあげるね(笑)。

廣瀬

ヌーベル・キュイジーヌ以前、クラシックを代表する料理人であるエスコフィエとかにはこの“宇宙の風”への配慮が欠けている。「どんなニンジンが来ても俺のソースでねじ伏せちゃうよ」って感じです。

でも、ヌーベル・キュイジーヌっていうのは「ニンジンは個体ごとに味が全然違うから、ちゃんと一本一本のニンジンの声に耳を傾けて料理をしましょうね」って考え方なわけですよね。その後の〈エル・ブリ〉のフェラン・アドリアくらいになると、さらに進んで微分と多様体みたいになったということだと思うんですけど……お、1品目が来ましたね。

アントレ(前菜):牡蠣の冷製

軽く火を通した牡蠣の冷製 海水と柑橘のジュレ 海苔風味

〈EDITION KOJI SHIMOMURA〉海水と柑橘のジュレ
器の下はアオサ海苔を加えた牡蠣のムース。サッと火を通した広島県大黒神島産の30ヵ月ものの大粒牡蠣を柑橘風味の海水のジュレ、乾燥させた海苔とともにいただく。海の中をイメージした一皿。

菊地

うん、旨い。

廣瀬

さっきの話でいうと、宇宙の風に吹かれていますよね。地球の全体の運動が皿の中で丸ごと反復されている。牡蠣(かき)(=肉)が家の中でキューッとなってなくて、様々な運動に開かれている。牡蠣が海水のジュレの中で、海苔(のり)やミルクと元気に遊んでいるというか。

菊地

見た目も美しいですね。「料理は目で食べる」なんて言いますが、やっぱり見た目って重要ですよ。なので、今回僕は料理写真が充実している本ばかりを持ってきました。この『季刊 フランス料理 No.2』は道端で拾ったんですが、載っている料理が今見るとグロテスクで、見ていて楽しい気分になれるんです。

廣瀬

温もりがあるけどちょっと息苦しいですね(笑)。

菊地

今のフランス料理ってオランダの家具みたいに美しいですから、逆に新鮮ですよね。こっちの『神田川料理道場 メッタ斬り』は、主婦の作る家庭料理を片っぱしから批判して、「こういう料理を作りなさい」と提案する本なんですが、なんていうかキッチュ。特に正月料理のページはヤバいです。

でもって最後が、ヤマハの会長である川上源一の『エピキュリアン料理』。1970年代に、ヤマハが沖縄をリゾート化する際に作られたものなんですが、開発するわけだから、今まであったものを壊しちゃうわけですよね。

それを正当化するための思想的な担保として「エピキュリアン」(快楽主義者)を持ち出しましたって一冊。「我々はエピキュリアンだから、山海の素材でこんなに豪華な料理を作れるぞ」っていうことなんですけど、この本の料理写真も何だか見ていて元気になるんですよね(笑)。

廣瀬

色味がゴーギャン風ですね(笑)。しかも、いわゆる沖縄料理がいっさい掲載されていないのがすごい。

菊地

そうなんですよ。マレーシアとか、そっちの感じですよね。エスニズムが入ってきちゃうとリゾート開発じゃなくなっちゃうってことだったんでしょうね。エスニズムというよりエキゾティシズムというか。今は真逆ですけど。

プラ(主菜):蝦夷仔鹿肉のロースト

釧路産 蝦夷仔鹿肉と色鮮やかな根菜のロースト&ケール

〈EDITION KOJI SHIMOMURA〉根菜のロースト&ケール
鹿狩り名人がストレスなく射止めた蝦夷(えぞ)仔鹿肉をジューシーにじっくりと焼き上げた。旨味を引き出した野菜に乾燥させたケール、お味のアクセントには塩でマリネした生粒黒コショウとプレスした乾燥黒粒コショウを添えて。

菊地

これも旨いなぁ。マスタードリーフかなと思ったけど、ケールなんですね。ジビエのソースとして食べたことがない味です。

廣瀬

ケールって青汁のイメージが強いですけど、美味しい。クロード・レヴィ=ストロースの『野生の思考』によるとある部族には「食べる」と「結婚する」という2つの意味を持つ単語があるそうです。「人肉食」と「近親相姦」を両方意味する単語を持つ部族もあるらしい。素材としての肉には、そういう「食べ物」であると同時に「セクシュアルなもの」でもあるという二重性がある。

で、この二重性をどうするかっていうのが、料理では問われている。答えは2つあると僕は考えています。セックスの雰囲気を皿まで持ってくるか、逆にセックス的なものを切断してしまうか。この料理は、性的に未熟である仔鹿を使うことで、後者の料理になっているといえると思います。菊地さんは前者の方にも興味があるんじゃないですか(笑)。

菊地

いやいや(笑)。でも、身も蓋もない話をすると、料理がエロティークな文脈で語られる根拠は、体臭が食材の匂いに似てるからだと思うんですよ。キスとかセックスっていうのは、相手の体臭を自分の体内に取り込むってことだから、何かを食っている気になるというわけです。

廣瀬

なるほどね。この料理に関しては、焼き方も重要ですよね。脂身に薄く焼き目が付いていて、それが甲羅みたいになっているんですよ。これが作れないと脂身って軟らかすぎて不安定で、それこそ「これが美味しいんだ」っていう信仰、思い込みがないと美味しくない。

菊地

廣瀬さんの骨付き肉理論でいえば、中の骨と外の肉を反転させる“甲殻類化”ってことですよね。

廣瀬

そうなりますね。今日持ってきたシェイクスピアの戯曲『タイタス・アンドロニカス』もその甲殻類化に関するものです。主人公のタイタスが、自分の娘を強姦した若い2人の男を殺し、その肉でパイを作るんですね。面白いのは、そのパイを彼らのお母さんに食べさせてしまうってところ。お母さんが息子の肉を食うっていうのは、さっきの『野生の思考』にあったのと同じく人肉食であると同時に近親相姦ですよ。

菊地

パイっていうのが面白いですよね。復讐譚だから一番のタブーを一気に犯そうっていうのは発想としてわかりやすいのですが、でも、パイって(笑)。

廣瀬

そのパイの作り方が秀逸なんですよ。骨をまず砕き、それを血と混ぜて生地を作って、中に頭や肉を入れるんです。つまり、中の骨を外に裏返す甲殻類化。カフカの『変身』と同じです。しかも、パイの皮は、原文だと“Coffin”なんです。

菊地

棺桶だ。でも、甲殻類化って、単なるメタモルフォーゼとは違う気がします。それはたぶん“切る”って行為と関係がある気がするんです。普通、表面はスパスパ切れるけど、骨はなかなか断てない。それが裏返って、外が切れなくなるというのはエロティークだと僕は思います。

〈EDITION KOJI SHIMOMURA〉根菜のロースト&ケール2

廣瀬

その話と繋がりますが、料理を考えるうえで“切る”って行為はとても重要です。またドゥルーズとガタリですが、『アンチ・オイディプス』にはハムについて書かれた箇所があります。ハムっていうのは「無限な豚のモモの肉の流れ」を切断したものだって彼らは言うんです。

だから、切れてないハムは存在しないし、切り方次第で全然違う味になると。ハモン・セラーノにはそれをハモン・セラーノたらしめる特定の切り方がある。にもかかわらず、スーパーなんかにはよく適当に切られたと思われる「切り落とし」が売っている。これは果たして本当にハモン・セラーノのなのでしょうか?(笑)

同様のことはキュウリの漬物についてもいえます。キュウリの漬物って包丁の入れ方や、切る角度、厚さによって、その美味しさがまるきり異なるわけです。昔の家庭では、お母さんが漬物の切り方を失敗すると、お父さんがちゃぶ台をひっくり返すくらい怒ったなんて話もあったみたいですからね(笑)。

デセール(デザート):モン・ブラン

熊本産 利平栗のエディション版 モン・ブラン

〈EDITION KOJI SHIMOMURA〉モン・ブラン
クリーム等の油脂を全く使用しない〈エディション・コウジ シモムラ〉らしい一皿。栗のピューレに水と砂糖のみを加えて滑らかに仕上げた風味豊かな栗と爽やかなパッションフルーツのハーモニーが楽しめる。

菊地

おっと、デザートはモンブランですね。

廣瀬

雪崩(なだれ)風な盛り方がいいですね。「クリームなのにちゃんと立ってますよ」っていう上昇運動が、モンブランの一般的な形成ですが、このモンブランではそれが逆転され、栗がお皿をコロコロと転がり落ちるような下降運動がある。

菊地

ですね。ポスト・ヌーベル・キュイジーヌ以降の考え方で盛られている感じがします。〈エル・ブリ〉とか最近だと〈ノーマ〉とかもそうですが、盛り方が抽象的というか。これまで中心にあったはずの肉が皿の端っこにあったり(笑)。

廣瀬

このダラッて流れてきそうだけど、どうにか形をとどめているっていう緊張感は、フランシス・ベーコンの絵画っぽい。今回は肉の話ばかりしていたのにキリスト教の話をしなかったので、最後にベーコンのインタビュー集『肉への慈悲』に言及しようと思います。ベーコンは「みんな肉としてのイエス・キリストにしか興味がないけど、重要なのは十字架に架かっていることじゃないの?」って言っています。

菊地

それは本当にそうです。

廣瀬

磔刑図に描かれている肉に迫力があるのは、十字架のおかげである。十字架に吊り下げられているから、イエスの肉がその力を発揮している。もしそのへんに倒れていたら、ここまでの力は感じられないはずだ。ベーコンはこのインタビュー集でそんなようなことを言っています。この「力」を「美味しさ」に置き換えたのが、僕の「骨付き肉理論」です。

このモンブランについていえば、たぶんお皿の中央の隆起した部分が十字架=骨なんだと思います。料理人は素材を十字架に架けることで、宇宙の風を皿に呼び込みつつ、素材を「復活」させるのです。

ジャズミュージシャン・菊地成孔、評論家・廣瀬純