「聖書が西欧文化への扉に」
「中学、高校と恵泉女学園に通いました。キリスト教系のこぢんまりとしたプライベートスクールで教育の基本は聖書です。今考えると、西欧文化の入口は聖書でした。
海外の美術館で中世の絵画を見ると、たぶんキリスト教の物語を知らないと何が描かれているのかわからないんじゃないかしら。そういう意味でも、情操教育の基礎を聖書の物語から知ったのは良かったと思います。
旧約聖書の物語はたくさんあって、なかには恐ろしい話もありますが、イマジネーションを掻き立てます。
誰が書いたのかはわからない、だけど言葉はすごく気になって、聖書の物語の世界に入っていきました。聖書を読むのは、信仰や宗教を学ぶというより、物語に導かれていく感覚です。
カトリックの大きな宗教組織、聳え立つ大聖堂、世界中に広がるクリスチャンの輪。そういう信仰というものが強く感じられる理由が聖書にはあると思います」
「興味のあることをジャグリング」
「姉の矢川澄子(作家)がアートディレクターの堀内誠一さんの夫人ととても親しくて、あるとき誘われて家に遊びに行ったら、堀内さんに明日からスタジオにおいでと言われて、突然働くことになりました。
アド・センターという広告の企画制作や雑誌の編集をするクリエイティブスタジオでしたが、出入りする人たちがみんな面白い。
私は一応堀内さんの秘書という立場でしたが、『週刊平凡』のファッションページを制作するなど仕事が非常に幅広く、いつもいろいろな仕事を同時進行させていました。
私はそれをジャグリングと呼んでいますが、たぶん友達の石岡瑛子さんが言い始めた言葉です。
最終的にコピーライターになって独立しましたが、仕事をし始めるとどれも興味が湧いてきてジャグリングになってしまう。でもそれが性に合っているんでしょう。思えば、子供の頃から同時進行でいろいろな遊びをするのが好きでした」
「学びは自然に身についていく」
「ジャグリングで仕事をしていると、細い水流がそれぞれに流れているような感覚なので、影響し合うことはないんですが、時代感覚みたいなものは自然と通底しているかもしれません。
70年代のパルコのポスターでは、自然に生きようというテーマで、フラワーチルドレンのようなエスニックファッションとヌードを並べています。
人間の自然の状態はヌードだと思うんですが、ポスター表現でのヘアヌードはダメとなるとどうしても不自然なポーズになる。でもできる限りのヌード表現とエスニックファッションを並べようとしましたけどね。
そういう時代感覚みたいなものは学ぼうと思って学んでいなくて、自然と身についていくもの。それと好きなこととを重ね合わせて表現に使う。
だから、自分の好きなことだけに固執するんじゃなくて、全方位的に無防備に新しいものを受け入れたいという、底抜けの好奇心は常にあるんです」
「花を育てるには、土が必要」
「恵泉女学園というのは面白い学校で、聖書と共に柱としていたのは園芸でした。お嬢様学校の上品なイメージとは異なり、花や野菜を育てる泥まみれの学校生活です。しかも植物の居心地のいい土を一から作ろうと、良質な肥料のための肥溜め作りまでやっていました。
花を育てるには土を作る。そういうことが学校で自然と身についた気がします。また聖書には“栄華を極めたソロモンでさえ、この花の一つほどにも着飾ってはいなかった”という言葉が出てきます。
人間が成し遂げた繁栄も一輪の美しい野の花には及ばない、というような意味です。
好奇心の赴くままに、面白くて才能あふれる人ともの作りをしてきましたが、ベースの部分で無意識にセルフトレーニングというか、努力をしたのかもしれません。
相手には喜んでもらいたいけれど、おもねったり合わせたりはせず、何事も自分で考えて選んでいたのかなと思います」
「新しい仕事には新しい学びが」
「コンセプトワーク、キュレーションなど、幅広く新しい課題にトライするにはたくさんのインプットが必要になります。未知の分野のタスクを引き受けるのは、その世界をもっと知りたいのだから、新しい仕事は新しい学びのきっかけになる。
私が社会で起こっている事象を読み取れるようになったのは、コピーライターとしてさまざまな企業の仕事をしたことが大きいと思います。
本当は数学も化学もダメなタイプなのに、銀行とか製薬会社や電気会社、いろいろな企業のコピーも書いてきました。そういう意味で仕事と学びは直結しています。
でも結果、好きだし勉強のしがいがあるのは、繊維とファッションだとわかって自ずと世界が決まっていきました。やっぱり好きなことを見つけるのは大事。
でも、苦労して難しい広告コピーにチャレンジすることで、ある分野の理解が深まり、逆に何が好きかがわかって楽になるのも真理です」
「好きなことだけに固執せず、新しいものを受け入れたいという、底抜けの好奇心は常にあるんです。」