考えて考えて考え続け、
価値観を壊すことが新しい時代には必要
料理研究家の土井善晴さんが提唱する「一汁一菜」は、「ご飯、具だくさんの味噌汁、漬物」を基本とする食事のスタイル。それは、長年にわたって「料理」を自考し、導き出した思想であり哲学であり美学だ。
そこへと辿り着いた「学びの過程」を聞きたいというと、土井さんはこんなふうに答えた。
「評論家の小林秀雄は子供の教育について聞かれたとき、子は親の思う通りにはいかないもので、自分が何をしたというのは何もないけれど、僕は一生懸命生活しましたよ、と答えているんです。
その通りやと思う。私も勉強というより、一生懸命生活してきたんです。一生懸命。すると必ず疑問が湧いてくる。聞いても誰も答えられない疑問です。
例えば、どうしてお箸は横向きに置くの?どうしてこんなにおいしいの?本にも答えはない。わからない。わからないけど、ただただ“なんでやろ?”って考え続ける。
そうすれば1週間後に、あるいは数年後にポッと答えがわかる。それも確信的に。そんな小さなたくさんの気づきの末に、あるとき、大きなもんが現れて教えてくるんです」
そして、「その出発点になったんはこれかな」と、古びた本を一冊、書棚から取り出した。
さまざまな民族と出会い
純粋に生きる美しさを知る
ウェストン・A・プライス著『食生活と身体の退化』。それは、土井さんがまだ学生だった頃、かかりつけの歯科医師から「読んでみて」と薦められた本だという。
「近代化されていない土地に暮らす民族が文明と出会ったとき、その前後で彼らの身体がどう変わり、その精神がどう変わるかを、プライス博士が世界中の民族をフィールドワークして、民族の食べ物と心身の関係を多くの写真とともに示した本です。
つまり、その土地の素朴な伝統食と習慣から生まれた美しい身体と精神を育んでいた先住民たちが、入植した白人がもたらした近代食を食べることで変化する。一軒のスーパーができる前と後に生まれた兄弟の顔つきがあからさまに違ってくるんです。
発達した顎は小さくなり、きれいだった歯は虫歯だらけ、歯並びも悪くなる。やがて、犯罪者が出てきて刑務所ができる。食事の劣化によって人の心まで変わってしまったんです。怖いと思いました。食べるもんがこんなにも人間に影響するのかと。
それで、自分の顔を鏡で見ると、歯並びは良くないし忍耐力もない、自分も同じじゃないかと不安になって。やっぱり、自分は弱いという思いが常にあったんです。人間的な弱さに対する自覚がありましたから」
父は日本の家庭料理の第一人者であった故・土井勝、母は料理研究家の故・土井信子。土井さんは少年時代、「君はええとこのボンボンやから甘い」と父の仕事仲間に言われたことがあったという。
「大阪で言うところの“あかんたれ”です(笑)。ただ、プライス博士の本で救いだったのは、どんな人間でも食事の改善によって健全な子孫を残すことができる、とあったこと。人間には良い食事がいちばん大事だと。それはその後の自分の軸に、何があってもぶれない重心になったんです」
そして土井さんは、「弱い」自分を鍛えるため、大学を休学、スイスへ。20歳のときだった。
「〈ローザンヌ・パラス〉という5ツ星ホテルで初めて厨房に入りました。スイスにはいろんな国から出稼ぎ労働者が来ていて、洗い場にはシシリアンのおじさんがいたんです。
彼は、世界地図を広げても、スイスがどこかもわからず、みんなから笑われて。でも、すごい力持ちでみんなから一目置かれ愛されていた。世界に出て初めていろんな背景を持った人や民族がいると知ったんです。
その後、一度帰国して改めてフランスのリヨンのレストランで修業して。そこで仲良くなったアフリカ人のコックの家に遊びに行ったとき、見せてもらった写真は、草原で家族がしゃがみ込んでいるものだったんです。なんかもう、えらい感動しましてね。
なんやろ、そこで純粋に生きるたくましさ。小さな村のレストランでは、森にキノコを採りに行き、畑にサラダ菜を摘みに行くのだと。一言では表現できないけれど、その土地と人間の暮らしと仕事がちゃんとつながっているということがわかったんです」
その後、日本料理人を志した土井さんだが、大きな壁にぶち当たる。老舗料亭〈味𠮷兆〉での修業中、父が経営する料理学校が経営難となり、呼び戻されたときだ。
「超一流を目指す私が、なんで家庭料理をやらなあかんねん、と。今思うと恥ずかしい話ですが、当時の私は家庭料理を下に見ていたんです。家庭料理が自分の一生の仕事にできるのかと。そんなとき、京都の河井寬次郞記念館をふと訪ねて、柳宗悦らが提唱する“民藝”と出会ったんです。
それは、たんたんと生活する暮らしの中にこそ美しいものが生まれるという思想。美しいものは追いかけても逃げていくけど、真っ当な仕事の後に美しいものが生まれている。
自然と良い関係を持ちながら育む健全な暮らしの中にこそ美しいものがあると気づき、“そうか、家庭料理は民藝や”と発見したんです。家庭料理は名もなき工人が作る美しいものと同じ。ふつうの暮らしにこそおいしいものがあると」