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料理研究家・土井善晴の、“学び”方のスタイル。〜後編〜

さて、「学ぶ」と決めたはいいが、学生時代のように机に向かって問題を解き続けることだけが「勉強」ではないことを大人の私たちは直感的に知っている。自らに問いや視点、思考があれば、あらゆる場所や対象が「勉強」になる。「料理研究家・土井善晴の、“学び”方のスタイル。〜前編〜」も読む。

Photo: Koichi Tanoue / Edit: Izumi Karashima

気になる人には
手紙を書いて会いに行く

土井さんの根本には「なぜそうなのか」という「問い」が常にある。「一汁一菜」の思想もそうだ。「主菜と副菜と汁物の一汁三菜が日本食の伝統」という固定観念を疑うところから始まっている。

「一汁三菜は戦後に広まった考え方なんです。それまで上流社会にはありましたが、庶民は一汁一菜。昭和30〜40年代の高度経済成長時代、おかずがたくさん食卓に並ぶことが豊かさの象徴となったことで確立された。

それは戦後の栄養不足、カロリーを補うため、肉料理のようなメインディッシュのある献立を取り入れた全国民挙げての栄養教育、フライパン運動(一日一食はフライパンを使った料理を食べようという啓蒙活動)の結果でもあったんです。

そして、そういったご馳走があるのが良い家庭、それを作るのは主婦であり女の仕事と。その後、専業主婦の時代は終わり、女性の社会進出が当たり前となりました。
なのに、家事は女性の責任という社会の空気は変わらず、多くの女性が苦しんでいる。男も女も固定観念がなかなか抜けないんです。

おかげで、料理が心の負担となってしまった。それで、『一汁一菜でよいという提案』を私は書いたんです。一汁一菜は手抜きじゃない。生活習慣病とメタボの原因になる過剰なご馳走の習慣をリセットし、初期化しようということです。

味噌汁に季節にあるものを入れればそれでいい。その上で、時間、お金、気持ちに余裕があれば、家族、そして自分自身が喜ぶ料理を一つ作る。食事が楽しみになるんです」

國吉清尚の器、李朝の器、フランスのカフェオレボウル、香港の景徳錆皿
1枚200円の安いお皿も美しいと感じる。土井さんの机に並んださまざまな器。「國吉清尚の器、李朝の器、フランスのカフェオレボウル、香港で買った景徳鎮皿……。値段が高い安いじゃない。どれも美しいもんです」

それは私たちの価値観を揺さぶるためでもあると土井さんは言う。

「今、料理に限らず、個人に自由がなくなっているんです。設計主義の“ああすればこうなる”という社会。レシピ通りに作るのが正しいと。レシピは設計図じゃないんです。
その時々の食材やお天気、気分に合わせて、食材と対話しながら料理はするもの。いつも同じじゃないから、私は“ええ加減でええ”と言うんです。

ええ加減いうのは、自分で判断するということ。でも現代人はそれができなくなりつつある。基本さえ踏まえていれば後は自由なのに。既存の価値観から解放されないといけないんです。
例えば、ここにある器は、ある時代に大量に作られたもの。この景徳鎮は1個200円くらいで買いました。固定観念がなくなると、こういった雑器がとても美しいと感じられるんです」

200円の皿より2万円の皿の方が良いもの。レシピに皮を剥くとあるから皮を剥く。確かに、私たちは日々知らない誰かが決めた価値観に縛られている。

「なぜ皮を剥くのか、その違い、意味を考える。それは自分で見つける目を養い、自然の理という基本を学ぶということ。そのためにも日本社会に固定された価値観のヒエラルキーを壊すことが大事。それが新しい時代には必要だと思う。

私は、価値観を転倒させられる人が好きなんです。それは例えば、グラフィックデザイナーの田中一光であり、建築家の坂茂であり、解剖学者の養老孟司、書家の石川九楊、生命誌研究者の中村桂子。
最近だと、政治学者の中島岳志、経済思想家の斎藤幸平。彼らの仕事や思想に感動して“この人や”と発見したら、手紙を書いたり、メールを送ったりして会いに行く。

それは20代の頃から無意識的にやっていること。だから、“学びとは?”と問われれば、私にとってはこういう人たちに会うこと。

建築家で、作家で、絵描きで、陶芸家で、ギターを奏で歌って、“いのっちの電話”をやってる坂口恭平は最高ですね。彼が『cook』という料理本を出したとき、すぐに手紙を書いて。彼の料理が良い悪いじゃなく、この人は生きてるな、と。大事なのは“一生懸命生きる”ことですから」

わからなくてもいいから
とにかく考え続ける

物事を徹底的に自考し価値観をアップデートする。それはまさに、土井さんが若き頃から実践してきた「勉強法」なのかもしれない。では今、土井さんの中でヒットしている人物や事柄、事象とは一体どんなことだろう?

「いろいろありすぎるけども。一つ挙げるとするなら、哲学者ハンナ・アーレントの『人間の条件』。私なんか、彼女の哲学について聞かれても、おそらく半分もわかってないでしょう。
でも、一つの文章、一つの言葉を見つけて、自分の中で眠っていた疑問の答えのきっかけという、宝物に出会うんです。ああ、これでいいんだと。

もとはといえば、哲学者の國分功一郎さんがアーレントについて書いた文章を読んだのが最初で、その後、彼女の直の言葉に触れ、刺激を受けた。それは何かというと、『人間の条件』以前の人間の条件、いうたら前人間の条件。
つまり、人間は火星で生まれたら人間ではない、地球なくして人間はあり得ず、人間の土台は何かといえば、住処である地球。これが最初に書いてあることなんです。

“労働の人間的条件は生命、それ自体である”。私はアーレントの思考の出発点に学んだんです。
今、人間は、“基本”という大原則を失いつつあります。原点を持っているか、原点に気づくことができるかどうか。最初にも言ったけれども、ただただ考える。自分で気づくことが大事。

いつ気づくのかといえば、感覚所与が目の前で起きた刺激を受け止め、それらが、身体に蓄積されたすべての過去の経験と反応して〝悟性〟を起こすとき。とにかく経験することなんです」

ふと、土井さんの手元を覗くと「無駄な時間のクリエイション」と書かれたメモがあった。

「さっき思いついた言葉。聞かれても、ようわからん(笑)。これが何かをこれから考えるんです」

料理研究家・土井善晴のメモ
ふと抱いた疑問はそれが一体何かわかるまで考え続ける。土井さんは気になった言葉に出会うと立ち止まる。この日考えていたのは斎藤幸平さんの「料理は構想と実行が統一されている」という言葉。「“構想”は何かから考えて。結局それはシェフの仕事やと。家庭料理には当てはまらない。家庭料理はもっと気楽なもん」