柴田元幸
現代アメリカ文学の人気を高めた船頭
人気、筆力ともに現代アメリカ文学を担う作家の一人、ポール・オースター。柴田元幸は1990年代初頭から『幽霊たち』『鍵のかかった部屋』などを訳出し、日本でのオースター人気を定着させた立役者だ。
当時の柴田は、東京大学の教諭として、同じく英米文学者の佐藤良明と共に、読んで面白い英語の教科書『The Universe of English』を編纂。英語教育に変革をもたらす人物としても話題をさらっていた。以来翻訳業と教育の両輪で進んできており、この人の訳したものなら面白いはず、という“翻訳家読み”のきっかけを作った一人でもある。
『私たちがやったこと』『体の贈り物』などで知られるレベッカ・ブラウンが、アメリカより日本での評価が高いのは、柴田の功績によるところが大きい。またスティーヴ・エリクソン、スティーヴン・ミルハウザー、イーサン・ケイニン、リチャード・パワーズなど、驚異のスピードと量で、主にアメリカ現代文学の生きのいい書き手を紹介している。柴田訳によって海外文学に興味を持った読者も少なくないだろう。
2008年に創刊の、自らの責任編集による文芸雑誌『モンキービジネス』は、15号を発刊して現在休刊中だが、英語版が刊行中。これにより今度は日本の文学を海外に紹介するきっかけを作っているといえる。さらに村上春樹の翻訳をサポートしたり、弟子筋に早稲田大学で教鞭をとる翻訳家・都甲幸治がいたり、この人を軸に育ったネットワークにも注目だ。
藤井 光
現代英米文学界大注目の新星
英米文学の紹介者として、今後大きく期待したいのがこの人、藤井光。1980年生まれとまだ若いが、スピード・量はもとより、読書にひっかかりのないスムーズな日本語選びで、勢いを感じさせる。
主にアメリカの、まだ日本に紹介されていない若手の作品を続々と発掘しており、ウェルズ・タワー『奪い尽くされ、焼き尽くされ』、サルバドール・プラセンシア『紙の民』、ダニエル・アラルコン『ロスト・シティ・レディオ』、テア・オブレヒト『タイガーズ・ワイフ』など、訳す作品はどれも話題を呼んでいる。
かと思えば、つい最近になって20世紀に活躍したイギリスの詩人・劇作家であるロレンス・ダレルによる大作古典『アヴィニョン五重奏』全5巻の訳出を開始。いまや、作品の新旧問わず良書を読者のもとへ届けてくれる翻訳者といえる。
中村 融(とおる)
英米SFから奇想まで広く知らせる人
フィリップ・K・ディックやカート・ヴォネガットなどをはじめとする、多くのSF作品の翻訳者として知られた浅倉久志が2010年に他界し、巨星を失ったSF翻訳界。浅倉とともにジェイムズ・ティプトリーJr.やラファティなどを紹介した伊藤典夫もよく知られるが、若手であるこの人、中村融もぜひ覚えておきたい。
1960年生まれで、80年代からM・Z・ブラッドリーやアイザック・アシモフ、アーサー・C・クラークなど、その時代ごとに活躍した書き手を紹介してきたほか、20世紀前半に活躍したSFの大家、H・G・ウェルズのホラーSFの傑作、『モロー博士の島』を仔細に研究し直して新訳するなど、精力的に翻訳を行う。
もう一つ注目したいのが、SFともファンタジーともつかない奇想文学の分野で、テリー・ビッスン『ふたりジャネット』『平ら山を越えて』、フリッツ・ライバー『跳躍者の時空』などは、日本でもすでに人気のあるケリー・リンクやエイミー・ベンダーなどにも通じる、何かが不条理だけどそこはかとなくコミカルな読み口。UFOやエイリアンが登場するようなSFに興味のない人にも薦めたいジャンルだ。
柳下毅一郎
一度ハマると癖になる、英米特殊翻訳の世界
大学卒業後に雑誌『宝島』の編集部に勤務し、フリーになって以降は映画評論等で活躍してきた柳下。『宝島』時代の同僚だった町山智浩の創刊した『映画秘宝』でピンク映画の評論を行ったり、殺人映画の集大成を作ったりとニッチでアクの強い活動を繰り広げているが、翻訳業でもそれは同じ。
“特殊翻訳家”を名乗り、犯罪や中毒を扱う作品など、ともするとタブー視されかねない作品を紹介してきた。メインジャンルは英米SFで、ジーン・ウルフ『ケルベロス第五の首』『デス博士の島その他の物語』やニール・ゲイマン『ネバーウェア』などノワールの薫り漂う作品が多数。
英米コミックへの造詣も深く、切り裂きジャックをモチーフにしたアラン・ムーア著、エディ・キャンベルのイラストによるグラフィックノベル『フロム・ヘル』や、先に挙げたイギリスのSF作家、ゲイマンが原作を手がけ、コミックにして世界幻想文学大賞を受賞した『サンドマン』の第3、4巻も担当している。
この人でなければ紹介しないだろう分野や作品はとても多い。きれいごとばかりではない文学というカルチャーの、様々な顔を見せてくれる人物だ。
青山 南
大人にも子供にも英米文学の楽しみを
英米文学好きの間で今も伝説的な存在である『ハッピーエンド通信』。1979年創刊の薄手の雑誌で(現在は廃刊)、荒川洋治やデビューしたての村上春樹、デビュー前の池澤夏樹など、豪華な執筆陣が、主にアメリカの文学を紹介。
英米文学の世界を読者に届けるうえで大きな功績を残した。川本三郎や常盤新平と共にこの雑誌の編集委員を務めていたのが青山南で、ビート文学の旗手、ジャック・ケルアックの名著『オン・ザ・ロード』の翻訳を手がけたのもこの人。
T・コラゲッサン・ボイルの傑作選『血の雨』や、ゼルダ・フィッツジェラルドの全作品などを紹介してきている。一方で児童書の翻訳も多数。子供から大人までの誰もが英米の良書に触れるきっかけを、さまざまに作る人だ。
岸本佐知子
ヘン、だけど面白い。やみつき必至の世界観
ちょっと不条理で、素っ頓狂で、くすりと笑えて、なんか気になるから、もう一度読んでみたくなる……。個性際立つ世界観の英米の作品を次々に翻訳しているのが岸本。
翻訳家としての存在感を示したニコルソン・ベイカー『もしもし』『中二階』、スティーヴン・ミルハウザー『エドウィン・マルハウス あるアメリカ作家の生と死』のほか、リディア・デイヴィス、ジュディ・バドニッツ作品など、ペースを崩さず訳してくれるので読者にはありがたい限り。
“恋愛”ならぬ“変な愛”を綴る掌編を収めた短編集『変愛小説集』や、異形の作品を集めた『居心地の悪い部屋』は、どこかがとても奇妙なのにどことは言いづらい、ともすれば自分も同じような状況に陥ってしまうのでは……と思わせる不可思議な世界にまとまっており、この人の編集力の際立つ訳書だった。訳文がやわらかな日本語遣いであることも魅力の一つだ。
また同じく英米文学の女性翻訳家としては、ほかに、J・M・クッツェーやマーガレット・アトウッドなどの訳を手がける鴻巣友季子にも注目したい。
越川芳明
ボーダーの文化と文学をよく知る先達
縦書きの小説の中を横向きにテキストが貫通していたり、本文が波打っていたりと、実験的なレイアウトが組まれていた、スティーヴ・エリクソンの大著『エクスタシーの湖』。
英語版の感覚を失わずに日本語に移し替えるという気の遠くなるような翻訳を行ったのが越川である。訳書の数は多くはないが、著書『トウガラシのちいさな旅』などに明らかなようにボーダー文学にも造詣が深く、中南米のカルチャーに傾倒している様子。
移民や亡命を経た作家たちが、元々の母国語や移動した先の言葉で綴る文学は今や文学の大きな潮流。越境する文学から、次は何を発掘してくれるのだろうか。
野谷(のや)文昭
唯一無二のラテンアメリカ文学
文化と密接に結びついた、独特のマジックリアリズムを育て上げてきたラテンアメリカ。その紹介者として真っ先に挙がるのが野谷で、1970年代の後半から現在まで、多くの作品を翻訳してきている。
コロンビアのガルシア=マルケス、ペルーのバルガス=リョサ、メキシコのオクタビオ・パスといったノーベル文学賞作家はもちろん、『蜘蛛女のキス』などで知られる、よりポップなマヌエル・プイグの作品、世界中のポストモダン文学に影響を与えたアルゼンチンのホルヘ・ルイス・ボルヘスの諸作品……。
さらに、最新の訳書の一つは2003年に50歳で早世したチリ出身のロベルト・ボラーニョの遺作『2666』。謎のドイツ人作家、アルチンボルディに魅せられた4人の文学者たちのストーリーを軸に、メキシコの暴力と悪の歴史を暴いていく、世界的にも大きな話題を呼んでいる一冊だ。
こんな具合にラテンアメリカ大陸を自在に駆け巡る野谷の翻訳作品がなかったら、日本における読書はずいぶん偏ったものになってしまうはずだ。ところで、若い世代の魅力的な翻訳家が続々と登場するのは英米文学が中心というのが、今の日本における海外文学出版の現状。ラテンアメリカ文学からも、生々しい現実を描く現代文学を紹介する若手が登場してくると、さらに活気づくことだろう。
野崎 歓
読み口のいい正統派フランス文学
スタンダール『赤と黒』の新訳が各方面で話題となった野崎は、古典的良書から現代文学までを幅広く見渡すフランス文学の紹介者。ボリス・ヴィアン『うたかたの日々』や、長く『星の王子さま』として知られてきたサン=テグジュペリの『ちいさな王子』としての新訳は、現代に合った日本語遣いでフランス文学への間口を広げてみせた。
さらにミシェル・ウエルベックやジャン=フィリップ・トゥーサンなど、“絶対に読み逃さない方がいい”現代作家を選りすぐって翻訳しているから、ぜひ注目を。正統派のフランス文学の魅力に気づかせてくれるだろう。
管(すが)啓次郎
自らも移動しながら紹介する越境の文学
フランス人によってフランス語で書かれた文学というより、その周縁のフランス語圏で書かれた文学や、越境作家による作品を主に紹介するのが管。
フランス語はもとより英語文学の翻訳も行い、フランスのノーベル賞作家、ル・クレジオ『歌の祭り』、カリブの小国アンティーガ出身のジャメイカ・キンケイド『川底に』や、現代アメリカの女性作家、エイミー・ベンダーの諸作品など、この人ほどに縦横無尽に翻訳を手がける人も珍しいのではないか。
さらに管自身がアメリカ各地、ニュージーランドや南米の各地など世界各国に住んだ経験を持ち、移動を続ける人物であることも、翻訳作品に説得力を与えている。ノマディックに世界を移動しながら綴る彼自身の紀行文も人気で、『ホノルル、ブラジル−熱帯作文集』『斜線の旅』など、手に入りやすい近著も必読。
まずは書き手として好きになって、その視線の先にある文学を読んでみたいと思うのは、ある種必然の流れ。海外文学へのそんな入口があってもいいではないか。
沼野恭子
大作家輩出国、ロシアの文学を知るために
まだまだ数少ない現代ロシア文学の紹介者として気を吐くのがこの人。ロシアでは高い人気を誇るリュドミラ・ウリツカヤの『ソーネチカ』や、ロシア系ユダヤ人作家レオニード・ツィプキンの作品で、ソ連末期に書かれてロシアでは長く日の目を見ることのなかった作品『バーデン・バーデンの夏』などを訳出している。
トルストイやドストエフスキー、ツルゲーネフなどなど数多くの大作家を輩出してきたロシア文学の現在を知るためにも、この人には注目したい。ちなみに夫はやはりスラブ文学者の沼野充義。こちらもスタニスワフ・レムやウラジーミル・ナボコフなど、充実のラインナップを精力的に紹介している。
近藤直子
隣国を知るためにまず本を読もう!?
莫言のノーベル文学賞受賞で日本でも突如光の当たった中国文学。隣国でありながらなかなか日本語で読めないのは残念な現実だ。現役で活躍している女性作家、残雪の紹介者である近藤。まだ知らない中国文学の世界が楽しみだ。