酒場通いをするようになって20年近く。東京には美食も最新もあるけれど、私が惹かれるのは昭和の時代から続く大衆酒場だ。
敬愛する昭和酒場には、「時間と手間を省くことは、お客に対する裏切り行為」といった気っ風が貫かれている。隅々まで掃除の行き届いた店内、手仕事の伝わる酒肴、何か不足はないかとつねに気を働かせる店員……。そして、そこに愛着をもって集まる客たちもまた、店の個性をつくる大事な役者だ。
昭和30年初めに誕生した武蔵小山〈牛太郎〉。「うちは働く人の酒場だから」と当時の価格をほぼ変えず、皆からジョーさんと呼ばれるご主人と奥さまが夫婦二人三脚で助け合い、店を守っている。
長く続いてほしいと願う客たちもまた守り人。満席で並び始めると、さっと席を譲る人。自分の皿やグラスをカウンターに上げ、テーブルを拭いて帰る人。誰もがこの店を愛し、大切にしていることが振る舞いに表れている。その様子を見て学び、自分のものをきれいにして席を立つ若い人も多い。店の流儀がリレーのバトンのように渡されていく、古い映画のような世界がここには生きている。
バトンは店の代を継いでいくことにも通ずる。明治から100年以上の歴史を刻む北千住〈大はし〉。私にとってこの酒場の醍醐味は、長いコの字カウンター席から眺める、父と息子による家族のリレーにある。
4代目は85歳のいまも店に立つが、中心は5代目の息子さん。あちこちから飛んでくる注文を「オイきた」のかけ声で捌(さば)く、矢のごとき素早さ。両肘を張ってせかせか動き回る勇ましさ。その働きぶりは、若かりし頃の親父さんそっくりだ。父からのバトンを手にした5代目の威勢を頼もしく思いながら、この先もリレーが続くことを願っている。
〈牛太郎〉や〈大はし〉が東京下町の心意気が詰まった酒場ならば、湯島〈シンスケ〉は「洗練」の東京を教えてくれる酒場だ。20代のとき、上司に連れて行ってもらったのが初。杉玉が下がる縄暖簾(のれん)の粋。分厚い白木のカウンターの風格。そこから眺めるすらりとした白徳利が並ぶ工芸美。泰然とした構えのご主人。そこで酒を飲む紳士淑女たちの成熟した会話と所作。
すべてが格好良く、いつか自分もこの店に相応(ふさわ)しい大人になりたいと憧れた。その気持ちは20年たったいまも変わらない。次のシンスケを担う息子さんの、理想の酒場とは何かを考え、試行錯誤を続ける思考が私を刺激するのだろう。
そう。古いままなのが昭和酒場の魅力ではない。何年ぶりかで人形町〈笹新〉を訪れたとき、佇まいや設(しつら)えは昔のままだが、流れる空気に瑞々しさを感じた。知らぬ間に代替わりし、若い夫婦が切り盛りしていたのだ。
いまの主は、初代の孫娘とその夫で、祖父が守ってきた暖簾を受け継ぐため、それまでの仕事を辞めたと聞く。創業からの名物ねぎまやしめ鯖などの看板料理はしっかり継承する一方で、以前は1種類だった日本酒を増やし、魚料理で勝負しようと肉料理はやめた。「加える」と「削ぎ落とす」で、新世代の笹新は令和のステージに立つ。
戦後まもなくから続く浅草〈水口食堂〉は懐が深い。朝10時から酒が飲めて、腹を満たしたい人には豊富な定食がある。壁のメニューは圧巻の100種以上。なんでも揃うのに、出来合いはほぼない。毎朝仕込むコロッケ、ポテトサラダに、自家製のマヨネーズやミートソース。ぬか漬けももちろん自家製だ。
ある晩、白髪の男性が座るなり味噌汁を頼み、熱々を啜(すす)ってひと言。「ちゃんとした味って安心するね」。その男性が薬を飲もうとすると、氷なしの水がすっと用意された。ささやかだけれど心に響く気遣いと、どんな人も受け止める酒と飯がここにある。
この5軒に限らず、いまも現役の昭和大衆酒場の多くは家族経営の個人店だ。彼らは何十年という年月をかけて、人の心まで満たす仕事を磨き上げてきた。その歴史は、人の生きざまの物語だ。私は、彼らの物語に何か大切なことがあるような気がしてならない。その「何か」を見つけるため、今宵もいつものカウンターに座っている。