信濃路 鶯谷店(鶯谷)
中学を卒えて家も出て、鶯谷に三畳間の部屋を借りたその夜に〈信濃路〉を知った。カウンターの隅で¥170のたぬきそばをすすったが、他の客は皆、酒を飲んでいた。男も女も、いずれもどこか得体が知れぬ風情の怪しげな、いわゆる下層の人種に映った。
数日経つうちには、その怪しげな空間に居心地のよさを覚えていた。と、云って誰かと話すわけではない。店員も無愛想極まりない。しかし、それが良かった。
値段の廉さと24時間営業が取り柄であると思っていたが、どうやら“誰も相手にせず誰からも相手にされぬ、無音と同義の喧騒”が魅力だったのかもしれぬ。だから38年を経た現在も、折にふれて立ち寄ってしまう。
昔の自分に会いにゆく、なぞ云う感傷的な意味合いもあるようだが、けれどこれも、自らの私小説を書く上で必須のエレメントになるからである。