『学園戦記ムリョウ』
「えー、宇宙人は、実はいました」
ゆるくユーモラスなこのイントロダクションに、さっそくぼくの心は掴まれてしまったのだ。
学園戦記ムリョウ。
今回はこの作品について語りたい。
最初に出会ったのはおそらく、舞城王太郎氏の『煙か土か食い物』と同じく、高校1年生のころ。学校に馴染めず、数ヶ月引きこもっていた期間だったと思う。
2070年、人類が今よりも少しだけ精神的に成熟した世界。狂言回しである中学生・村田始(むらたはじめ)の通う中学校に、時代錯誤な学生服を着た転校生・統原無量(すばるむりょう)がやって来る。
彼らの出会いが、やがて日本のみならず、地球全体を、そして宇宙をも巻き込んだ壮大な物語へと繋がっていく。
……のだが、そんなシリアスなストーリーが展開されていく一方で、彼らはどこかのんびりとしている。
文化祭や体育祭に情熱を傾けたり、夏休みに旅行をしてはしゃいだり、なんでもない日に集まってパーティーをしたりする。
大人も子供も人間も宇宙人も、みんなそれぞれ穏やかで、余裕がある。その雰囲気が、昔も今もたまらなく好きだ。
さて、そのように大好きなこの作品だが、今回改めて観返してみて、自分の感じ方や視点の変化に大いに驚かされた。
初見時は主人公たちとほぼ同年代だったから、自分も彼らのように成熟していて、ユーモアや知性があるのだと、ある種背伸びをして観ていた。
今考えるとそれこそが未熟さの証左のような気もするが、もしかしたらそう思うことで、不安定な自分を鼓舞していたのかもしれない。
けれど今回、30歳を過ぎて触れてみると、主人公たちの素敵さはもちろんのこと、周りの大人たちのあたたかいまなざしに、目頭が熱くなった。
作中では繰り返し、角度を変えて、「これまで」と「いまここ」と「これから」が語られる。それは途方もなく長いあいだ受け継がれてきた星の記憶であり、家族や友への愛だ。
あのころはそこまで意識して観ていなかったけれど、きっとぼくは、この作品で描かれているのは決して作り物の感情ではないのだと、本能的に気がついていたのだと思う。
そして、今ならもう少しだけ、その先についても考えられる。ただ無自覚にもらうばかりの期間はもう終わり、これからは自分もまた、次へとつなぎ、託していく時期に入っているのだと。
ちょうどこの作品を、8月31日に観終えた。
仕事の合間、たまたま通りがかった小学校はひっそりと静まり返っていて、なぜだろうとしばらく思案したのち、合点がいって苦笑した。
2070年まで、あと50年ほど。自分はそのときまでに、どんなふうに生きて、何を次の世代に伝えられるだろう。
そんなことをふと考えた、夏休み最後の日だった。