東浩紀『クォンタム・ファミリーズ』

久しぶりに再読して、はて、かつて読んだときはこういった内容だっただろうか、と率直に感じた。どういうことか。それはもう少し後で書こう。
今回紹介するのは東浩紀さんの『クォンタム・ファミリーズ』。刊行されたのは2009年である。
この連載のタイトルでもある「ゼロ年代」の終わりの年に、批評家・哲学者として活動されていた東さんが、単著としては初めて書かれた長編小説だ。
この小説について、連載の文字数で簡潔にあらすじを書くのは、ちりばめられた様々な要素のせいもあり、非常に難しい。
ただ、一つの切り口でいえば、タイトルがまさにキーワードになっていて、本文の言葉を借りるならば「量子的に拡散してしまった家族を再縫合する」物語だと表現することは可能かもしれない。
たしかぼくは、この小説を大学に入ってから読んだような気がする。というのも、この小説のことを考えるといつも、通っていたキャンパスのスロープや、埃っぽい図書館の片隅や、友人たちとの熱っぽい議論といった光景が思い浮かぶからだ。

ともかく、今回再読して、以前とてもわくわくした部分も、ここは個人的に少し苦手だなと思った部分も思い出すことができた。
けれど全体的な読み心地としては、たしかにこの本を読んだことがあるはずなのだけれど、前に読んだそれと、今読んでいるそれは本当に同一のものなのだろうか——というものだった。
もちろん、本を読むという行為は、読み手の環境や心情から逃れることはできないわけで、学生だった20歳くらいのぼくと、34歳になろうとしている今のぼくとでは、感じ方は違って当然だ。
作中でも言及される、いわゆる「35歳問題」——そのくらいの年齢を境にして、「なしとげたこと、これからなしとげられるであろうこと」の総和が減少し、「決してなしとげなかったが、しかしなしとげられる《かもしれなかった》こと」の総和が増えていく——という感覚なんて、昔はぜんぜんわからなかった。
だが今その感覚は、想像も共感もできない、ある種フィクショナルなものではまったくなく、むしろとても現実的で、自分と地続きなものだと感じる。
無数の「かもしれない」が頭の中で弾けていく。こうできたかもしれない、こうだったかもしれないという無数のifが去来する。
この小説はぼくにとって、ある種のタイムマシンのようなものなのかもしれない。ページをめくるたびに、あの時代——ゼロ年代というおのれの青春時代に、いつだって立ち返らせてくれる。
そういえば、ぼくの1stアルバムのタイトルは『quantum stranger』で、発送元の一つはもちろんこの小説である。
それも含めて、なんだか少しだけ昔の自分に再会できたような、不思議かつ心地よい読後感だった。