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斉藤壮馬の「ただいま、ゼロ年代。」第22回 乙一『さみしさの周波数』

30代サブカル声優・斉藤壮馬が、10代のころに耽溺していたカルチャーについて偏愛的に語ります。

photo: Natsumi Kakuto(banner), Kenta Aminaka / styling: Yuuki Honda(banner) / hair&make: Shizuka Kimoto / text: Soma Saito

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乙一『さみしさの周波数』

斉藤壮馬

小説を読み、書くのが好きになったきっかけの一つは、紛れもなく乙一さんとの出会いだった。
『さみしさの周波数』。今回はこの短編集について語ろう。

今から22年前、2002年に刊行されたこの本を手に取ったのは、小学5年生のころ。週刊少年ジャンプで乙一さん原作、小畑健さん漫画の『はじめ』を読み、そのツイストするストーリーとジュブナイルの気配に打ちのめされたのと、どちらが先だったか。

当時学校で、物語を書いてみようという授業があって、ぼくは乙一さんに影響を受けた小説のようなものを書いた。きちんとまとまりのある物語を書くのはそれが初めてだったが、そのとき先生に褒めてもらえたことが、今につながる創作欲求の元でもあるかもしれない。

さて、『さみしさの周波数』は、全4編の短編から構成されており、ダークな作風の「黒乙一」ではなく、切ない作風の「白乙一」路線の作品が収録されている。

いずれの短編も非常に巧みな構成と筆運びだが、小学生のころは、いつか結婚すると友人に予言された幼馴染の「僕」たちの織りなすビターでじんわり染み入る名作「未来予報 あした、晴れればいい。」、そしてひょんなことから泥棒計画を思いついた男の見舞われる思いもよらぬ騒動を描いたユーモア・エンタテインメント「手を握る泥棒の物語」が特に好きだった。

斉藤壮馬

乙一さんは映画好きとしても知られ、ハリウッド脚本術などのメソッドを使って執筆されているのは有名な話だ。デビュー作の『夏と花火と私の死体』(なんと秀逸なタイトル!)からして、平易な文体と緻密な構成という氏のスタイルがすでに完成されているが、執筆時16歳だったというからすさまじい。

今回読み返してみても、いずれの作品ともわくわくさせられ、考えさせられ、くすっとさせられ、泣かされた。
やはり乙一さんの生み出す物語が好きだなあと思っていたところ、ラストの「失はれた物語」に撃ち抜かれてしまった。

「失はれた物語」は、事故に遭い右腕の肘から先しか感覚のなくなった主人公が、元音楽教師の妻と腕の上で対話を重ねていく物語である。『失はれる物語』という短編集にも収録されているので、読んだことのある方も多いかもしれない。

以前読んだ際は、哀しい物語だと思いつつ、そこまで印象には残っていなかった。どちらかというと、多くの方がこういう雰囲気の作品を好むのだろうな、などと謎の上から目線で決めつけてしまっていた気がする。
もっとも、中盤からの展開は記憶に強く刻まれていて、今回も読み直さずとも結末まで完璧に覚えていたのだけれど。

しかし、この話ほど10代と30代で読み心地の変わる物語もないだろう。子供として、自分の生をまっとうすることに全力だったあのころと、家族や人生について否応なしに考えざるをえなくなった今とでは、染み入り度合いがまるで違っていた。

たしか小学生当時、この本が面白かったと母に薦めたような気がする。あのとき、母は何を思ったのだろう。当時の母の年齢にだんだん近づいてきた今、ふとそんなことを考えた。
なんなら、あのころのぼくに会って感想を訊いてみたいものだ。同じ自分でも、きっと今とは視点が違うだろうから。

そんな、幅広い年代の方と感想を共有したい、素敵な短編集だった。

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