恒川光太郎『夜市』
その日、ぼくら家族は空港にいて、しめやかに雨が降っていた。壁一面を覆うガラス越しに、世界を覆う鈍色(にびいろ)の空が見えた。
家族旅行の帰りだったと思う。ぼくは中学生で、場所は沖縄だったような気もするが、定かでない。
フライトまで時間があるから何か好きな本を買っていいよ、と父が言った。ぼくと妹は小さな書店で散り散りになり、とっておきの一冊を見つけるために奔走した。
そうして出会ったのが、恒川光太郎さんの『夜市』だ。
その妖しくも幻想的な表紙に一目惚れし、手に取った。帯に高橋克彦さんのコメントが載っていて、氏の小説が大好きなことも決め手の一つだったように思う。
今宵は夜市が開かれる——。
そんな学校蝙蝠のお告げと共に、物語の幕は上がる。大学生のいずみは、同級生の裕司から「夜市へ行かないか」と誘われ、訝しみながらもついていく。足を踏み入れた森の奥では、この世ならざるものどもによる、摩訶不思議な市が開かれていた……。
異界好きならば心を掴まれること間違いなしの導入部分だ。
『千と千尋の神隠し』の、千尋たち一行が迷い込んだあの街をイメージしてもらえれば、雰囲気がわかっていただけるだろうか。
しかも、「夜市」はただファンタジックなだけではなく、その猥雑かつ絢爛な舞台の上で、予想もつかないストーリーが鮮やかに展開されていく。
非常に簡素な文体で、ことさらに盛り上げるようなことはしない。けれど、むしろそれが物語の魅力を素材のまま伝えてくれるのだ。
読み進めていくうち、気づけば自分も日常から少しだけずれているような、今もすぐ近くで夜市が開かれているような、そんな薄ら寒い心地になってくる。
淡い余韻を残すラストも含めて、恒川さんのイマジネーションの豊かさに舌を巻いた。
併録されている「風の古道」も本当に素晴らしい短編である。
花見に行った小金井公園で父とはぐれた7歳の主人公は、一人のおばさんに出会い、不思議な道を通って武蔵野市の自宅まで帰宅する。12歳になった主人公は、友人のカズキと共に再びその道を訪れる。しかしそこは、ただびとが決して足を踏み入れてはならない道だった……。
こちらの方が「夜市」よりもさらにビターな味わいの一篇だが、どちらの短編にも共通しているのは、ロマンティックで美しい描写がある一方で、残酷なシーンや残虐なキャラクターも相当量描かれている点だ。
恒川さんはこのあと、主にホラーの領域で作品を発表されていくが、特に初期の作品にはこうしたバランスのものが多いように感じる。
それまで異界を探訪する高揚感に胸を躍らせていたのに、一瞬にして心臓が別の跳ね方をする。その、にべもなく裏切られる感覚がたまらない。
最初に『夜市』に出会ってから20年弱が経っている。いったい何度繰り返し読んだことか。結末を知っていてもなお、宵闇の奥底へと引きずりこまれてしまう、あのえもいわれぬ感覚は変わらない。
『秋の牢獄』や『金色機械』『無貌の神』『箱庭の巡礼者たち』などなど、好きな作品を挙げれば止まらなくなってしまうほど、恒川さんの生み出す物語に耽溺している自分がいる。
日々の生活の隙間に、まったく別の世界が広がっているかもしれない。一度迷い込んだが最後、二度と戻ってはこられない、魔の跋扈する世界。
怖いけれど、ちょっとだけ覗いてみたくなる……そんな、あなたの隣にあるかもしれない非日常を、一緒に感じてみませんか。