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音楽家・寺尾紗穂が『折坂悠太(歌)詞集』を読み、綴る

音楽家・折坂悠太の歌詞をまとめた(歌)詞集、『あなたは私と話した事があるだろうか』が刊行された。同じく音楽家である寺尾紗穂は、本書を読み、何を感じたのだろう?

photo: Koki Hikari

豊饒な言葉の海に遊ぶ人

文・寺尾紗穂

折坂さんの詞を眺めていると、いつも時代を軽々と超えて登場する語彙や言い回しに感心する。同時にこの人は一体何者なんだろう?という強烈な疑問が湧き上がってくる。それは「きゅびずむ」を聴いたときから変わりがない。その点、この(歌)詞集にはエッセイが挟まれているので、読者はその人となりをいくらか垣間見ることができる。

すでに故人となったレコード会社の社長に頼まれた企画ものとはいえ、コーヒーにまつわる二枚のアルバム(版画家・奥山義人氏のコーヒーにまつわる連作に関連して作った『珈琲』『珈琲物語』)があり、初期は猫の歌も数曲歌っていた私は、収録されている「恥」というエッセイを前に苦笑したわけだが、これなども、彼が感覚的な詩作などとは違い、歌詞の構築にいかに意識的に取り組んでいるかがわかる貴重なものだろう。

私が一番好きな折坂さんの曲は「窓」。それから「さびしさ」。「窓」はたまにカバーさせてもらう。時がうつろう寄る辺なさの中で、「夏が来るあの感じは 変わってないよと」という印象的なフレーズは、誰の心にも、ふと立ち止まりたくなるような時間の懐かしさを蘇らせてくれる。あるいは、「東京は新宿 朝六時 シャネルもグッチも答えはくれない」「仕事帰りのコンビニで 文春を読んで デザートと帰ろう」。どちらも擬人法が効いているフレーズだ。

折坂さんの詩には、はっとする擬人化が多い。「夜が明ける あなたに あなたに 知らせたいことがあると」(「鶫」)。夜が明ける、その日々単調に繰り返される自然の営みの中に、何らかメッセージを読み取ること。それは、人間にとって一番古くて、根源的な行為かもしれない。自分をとりかこむ事象に愛のおもかげを見出すその行為は、ネットという無限に広がりを持つように見えながら、実は閉じられた小さな世界で窒息しそうになったりもする、今の時代の私たちに最も必要なものかもしれない。

本書のラストに置かれた「戦争」というエッセイも印象に残る。戦争そのものではないが、歴史を負った曲というものがある。私が折坂さんとの共演でのセッションがきっかけでソロでも歌うようになった歌「安里屋ユンタ」もそうだ。美しい旋律、みずみずしい恋歌で、今なお多くの人に愛されている。

ただ、池澤夏樹さんのエッセイを読んでいた時に、この歌について、竹富島に伝わっていた原曲の魂を骨抜きにした歌、と痛烈に批判していたことに驚いた。今知られている民謡というものは、たいていが昭和初期にサビなどを利用する形で新しく作り直され、それがレコード化によって全国に広まった。

「安里屋ユンタ」の原曲は、竹富島の美人クヤマが、島にやってきた役人に求愛されるも全く寄せ付けない、というシーンから歌が始まる。島のプライドが歌いこまれていたものが、単なる恋愛ソングにされてしまった、というわけだ。歴史を背負った曲、という意味では、戦時中満州映画協会の作ったプロパガンダ映画の中で李香蘭が歌った「蘇州夜曲」なども、色々な歌手に歌い継がれている曲である。

折坂さんは、「戦争の副産物から生まれた文化の上で歌い、生きる。知らず知らずに影響され、言葉を紡ぐ。沈没した戦艦を寝ぐらにする魚の様に」、とエッセイの中で書いている。言い得て妙だ。私にとって、「蘇州夜曲」はリクエストをもらっても歌えずにいる曲の一つだが、折坂さんは戦争にまつわる言葉を扱うとき、慎重さを見せながらも、もう少し果敢だ。「性質を理解した上で、生きてる私の表現で塗り替える」。現代アートの作家が、危ういテーマを自分なりにぎりぎりの線で(時にはみ出しながら)調理して提示するように、折坂さんもまた、そんなアクロバティックな面を見せてくれるのかもしれない。

この人の作品のずるさは、ちょっと古めかしい言い回しや語彙で意表をつきながら、「産みおとされた さびしさについて」(「さびしさ」)のようにエモーショナルな表現や、「おにぎり食べろよ電車が出るよ つめこめ」(「旋毛からつま先」)というような何気ない会話の断片をセンス良く大胆にぶちこんでくるところだろう。あまたいる自作自演歌手の中でも、まれにみる言葉の錬金術師、という感じがする。

折坂悠太(歌)詞集『あなたは私と話した事があるだろうか』
音楽家・折坂悠太の歌詞をまとめた一冊。リリース曲に加え、ライブのみで披露している曲や、未発表の新作、計62曲の詞を掲載。また、書き下ろしエッセイ4編も収録。WORDSWORTH/1,980円。