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祐真朋樹が振り返る、トム・フォードとエディ・スリマンのリブランディング/前編

最近、『リブランディング』という言葉をよく聞くようになった。その意味はといえば、既存のブランドを時代や顧客に合わせて再構築すること。僕はファッション業界で、このリブランディングを成功させた事例をいくつか見てきた。

Text: Tomoki Sukezane / Edit: Akihiro Furuya

クリエイティブが優先されていた時代

リブランディングを成功させた代表例が、トム・フォードとエディ・スリマンによるリブランディングではないかと思う。どちらも20年くらい前の話だ。

彼らが成し遂げたリブランディングは、昨今よく見られるラグジュアリーブランドのディレクター交代とは趣を異にする。インディペンデントな魅力に溢れ、ビジネスよりもクリエイティブが優先されていた時代だったからできたことかもしれない。

彼らのリブランディングは、今より断然エモーショナルでエレガントな出来事だった。そしてその周囲は、熱い人間模様に彩られていた。

トム・フォードによる華麗なるグッチの再生。

その先鞭を付けたのはグッチだった。1989年、経営不振に陥っていたファミリー経営のグッチにひらりと舞い降りたのはドーン・メロー。

当時、NYのバーグドルフ・グッドマンの副社長だった彼女は、グッチのチーフデザイナー兼副社長として迎え入れられた。その時、彼女に誘われてデザインチームに入ったのがトム・フォードである。ドーン・メローがクリエイティブディレクターになって以降、グッチは誰の目にもまったく新しいブランドに生まれ変わった。

その頃、ロメオ・ジリやドルチェ&ガッバーナに夢中だった僕は、同じイタリアのブランドであるグッチの変貌にも大いに目を見張った。ビブラムソールのビットモカシンやメイド・イン・スコットランドのタートルネックセーターに魅了されて購入したのもその頃。

まだ本格的にトム・フォードがディレクターになる前だったが、当時発表されたそれらのアイテムは、それ以降のグッチスタイルを予見させるものだったと思う。その頃入ったローマのショップには、新生グッチのアイテムと、従来のクラシックなグッチが混在していたのを覚えている。混在はしていたが、何かが変わろうとしている状況が感じ取れたのは間違いない。

そして94年にはメロー氏が退任。NYに戻って古巣バーグドルフ・グッドマンの社長に就任すると、グッチアメリカのCEOだったドメニコ・デ・ソーレがグッチ本社のCEOとなる。これにてグッチ家によるファミリービジネスは終焉を迎えた。と同時にトム・フォードはクリエイティブディレクターに就任。アメリカ人が、イタリアの老舗ブランドを背負うこととなったわけである。

以降、トム・フォードは徹底して強いスタイルを打ち出し、NYやビバリーヒルズのビルボードにはマリオ・テスティーノ撮影のキャンペーン写真が大々的に掲示され、マドンナをはじめとする当時のセレブリティたちからも圧倒的な支持を受けていった。

短期間であれだけの旋風を巻き起こしたのは、やはりトムの手腕によるものが大きい。その陰で、1995年には前CEOのマウリツィオ・グッチが凶弾に倒れる。老舗メゾンの光と影を象徴する事件であった。

その頃、プラダもまたアクセサリー以外の洋服等の展開にも力を入れはじめ、90年代中盤から2000年頃までのイタリアファッション界はまさにこの世の春。
週末ともなると、モンテナポレオーネは行き交う人で芋洗い状態。グッチやプラダの店に入る人で行列ができるほどであった。

グッチのリブランディングの成功は、他の老舗メゾンにも大きな影響を与えた。その代表格がルイ ヴィトンだろう。ルイ ヴィトンは1997年にマーク・ジェイコブスを服飾部門のデザイナーとして招聘。グッチがトムならうちはマークだ、と言わんばかりにアメリカ人に夢を託したのかもしれない。

飛ぶ鳥を落とす勢いのトム・フォードが次に目を付けたのはイヴ・サンローランだった。トムは、フランソワ=アンリ・ピノー率いるPPRと共に、フランスが誇るイヴ・サンローランを1999年に買収。

この時のフランスにおけるトム叩きは凄まじかった。「アメリカ人がサンローランを買う」という、そのことが絶対に許せないという雰囲気。当時のファッション業界のトムに対する意地悪ぶりは、日本人の僕から見ると、ちょっとみっともなく思えた。経営が立ちゆかなくなりつつあるメゾンを救おうとしたトムは徹底的に冷遇された。たとえて言うなら姑の嫁イジメに近い感じ、だろうか。

存命中だったイヴ・サン=ローランは、トムが手がけるサンローランのデビューコレクションには足を運ばず、同シーズンにディオール・オムでデビューしたエディ・スリマンのショーへ出向いた。まるで応援団の如く、ファーストローに陣取って。

このシーズンは、トム・フォードVSエディ・スリマンの話題で持ちきりだった。そもそもエディは、トム・フォードとPPRがイヴ・サンローランを買収するまでは、イヴ・サンローラン・リヴ・ゴーシュ・オムのディレクターだった(ちなみにそのときウィメンズを手がけていたのは、後にランバンのディレクターになったアルベール・エルバス)。

が、ある意味、ディオール・オムをスタートさせたエディにとって、アメリカ人トム・フォードの存在は大きな追い風になったはずだ。フランスのファッション界は、エディのディオール・オムは官軍、トムのサンローランは賊軍、という図式があるが如くテレビや新聞で騒ぎたて、コレクション会場にもそのムードは充満していた。

クリスチャン・ディオールのディレクターであったジョン・ガリアーノもディオール・オムのショーに顔を出し、カール・ラガーフェルドはディオール・オムを着るためにダイエットを始めた。パリはエディの味方だった。
エディのディオール・オム旋風は、メンズコレクションの中心を一瞬のうちにミラノからパリへ戻した。

2001〜05年くらいまではパリコレ中、エディにインタビューする機会も多く、その時々に彼が何に興味を持っているのかを知ることができて面白かった。エディは、興味のある場所に頻繁に移り住んでいた。その頃は、パリをベースに、ベルリンやロンドン、ロサンゼルス……。

2004年に中田英寿さんとカンヌ映画祭へ遊びに行ったのだが、ちょうどエディも仕事で来ていた。彼から「カスバ(恵比寿のバー)のような店があるから行こう」と誘われ、一緒に行ったことがある。そこは会員制で、映画祭に来ている女優がノーメイクで遊びに来るような店だった。

エディは忙しくて1時間程で店を出たが、僕はシャンパンでスイッチが入り、延々と踊ったり飲んだりを繰り返した。どれくらい時間が経ったのだろう。

何故か隣に知らない女性が座って僕のシャンパンを飲んでいた。店を出てから中田さんに「スケちゃん、ケイトどんなひとだった?」と訊かれて僕は「え?」。「あんたの隣にいた人だよ!」。「ええ〜っ!」。
ケイトがノーメイクだったためか、僕が酔っていたせいか、その人がケイト・ブランシェットだとはまるで気がつかなかった。